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太安麻呂の野心 五

「書紀の記事を読むよ。・・・百済からの舒明天皇への弔使は言った。『百済国王(義慈王ぎじおう)は塞上さいじょう(義慈王の弟)は、いつも和国で悪いことをしているので、帰国の使いにつけて、帰らせていただきたいと申し上げても天皇は許可されないだろう、と申しております』と。弔使の従者達も言った。『去年十一月大佐平(だいさへい)(百済の位階十六階の一位)の智積ちしゃくが死にました。また王の家来が崐崘こんろん(今のベトナム・カンボジア地域の国)からの使いを海に投げ入れました。今年の正月に国王の母が亡くなりました。また王の弟の皇子である、児翹岐こぎょうきと同腹の女兄弟四人、内佐平ないさへい(百済高官位・内大臣にあたるか)の岐味きみ、高位の人々四十名が島流しになりました』・・・・日本書紀の記事を読む限りでは、百済に何が起こっているのか良くわからないね、しかし、書紀の後の条、斉明天皇六年七月の条には、・・・高句麗の僧道顕(どうけん)の「日本世記」に曰く。百済は自分自身で滅んだのである。義慈王の夫人は妖女で無道(倫理を守らない人)で国政を勝手にほしいままにして、賢臣に罪を与え殺すなどの故に、この禍を招いたのである。・・・とあるのだね。韓国古代の史書である「三国史記」の義慈王十六年(656年)三月の条にも、官女と淫楽にふける王をいさめた佐平の成忠を投獄した事、獄中での死に臨んで成忠が侵略阻止の方策を提言したが、耳を貸さなかった。という記事を見ることが出来るよ。


 つまり、書記のこの記事は義慈王とその愛妾の横暴の独断的な政治を伝えていると考えて良いね。この時期、百済の倫理と政治は非常に乱れていたということだね。それで書紀のこの条で、批判的で、母も違う弟を帰国させたいと王が願っている事や、その妹達を四人とその側に立つ四十人の重臣を島流しにしたりしたとか、ベトナムあたりからの使者を海に投げ入れる無謀さを使人が述べているということだね。・・・日本書紀がここで文章をぼかしている条は、後の「日本世記」引用による百済国の腐敗の条と整合しないと思わないか?僕はここに成立を急いでいた、書記の事情が現れているように思うんだ。


 

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