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太安麻呂の野心 四

「いちど、書紀の白村江はくすきえの記事あたりを精査してみたかったんだが、今日は良い機会だから書紀本文を検証する前に、ちょっとふれてみようか」

「そうですね、良いですね」

「この時期の天皇は斉明さいめい天皇という女帝なんだが、この天皇は第三十五代皇極(こうぎょく)天皇が重祚ちょうそ・・・一度退位した君主がふたたび君位につくことだね・・・したものだ。594年に生まれ661年に亡くなっている。皇極天皇として642年2月~645年7月、同母弟の孝徳天皇を挟んで第三十七代斉明天皇として655年から661年在位している。この人は天智・天武天皇の実母なんだ。敏達びたつ天皇のひ孫の、その孫の子という皇統からかなり遠い出自で、37才で舒明じょめい天皇の皇后になる前に用明天皇の孫と結ばれ、天武天皇説もある漢皇子あやのおうじを生んでいる。37才で皇后になったというのが本当なら天武天皇を生んだ時には40才にもなっていただろうから、当時の人の体力も考えると、『天武、父違いの兄弟の漢皇子説』もあり得るね。この漢皇子についての記事はなにも残されてはいないので、詳しいことは解らないようだ。また、皇統からひどく遠い女性である、皇極天皇が天皇になった背景には、なにか大きな変事が予想されるね。この件については、やがて考えよう。


 斉明天皇は最初、飛鳥に宮を作るんだが、唐と新羅に滅ばされそうな百済を助けるために筑紫の朝倉に都を移したのだ。筑紫に都だよ!詳しくは書紀を抜粋してみよう。その前に、ここで、ちょっと頭に入れておいて貰いたいのは、古事記が推古天皇で叙述を止めていて、しかも推古天皇の九代前の仁賢にんけん天皇からは天皇系図の記事に終わっている事と推古天皇の次代が、皇極&斉明天皇の夫の舒明じょめい天皇だと言う事だね。・・・さて、次が日本書紀の文章だ。


 皇極天皇紀 元年(642年)正月十五日 皇后、天皇位に就く。蘇我臣蝦夷(えみし)を、もとのとおり大臣とする。大臣の子、入鹿いるかは国の政治を執って、勢いは父よりまさった。そのため盗族などは怖じ気づいて、道の落とし物をすら、拾うことがなかった。

 二十九日 百済への使者、阿曇連比羅夫あづみのむらじひらふ(軍船などを司る家柄)は筑紫の国より早馬に乗って来て言った。『百済の国は舒明天皇が亡くなられたと聞いて、弔いの使いをつかわしました。私は、この弔使ちょうしにともなって筑紫にもどって来ました。私は葬儀に列席したいと思い、それで先立って一人で来たのです。弔使を百済は遣わしましたが、百済は今、大変な国難にあっております』


 二月二日 阿曇連比羅夫・草壁吉士磐金くさかべきしいわかね(姓氏録に高句麗好太王子孫とある)・倭漢書直県やまとのあやのふみのあたいあがた(漢氏は中国からの帰化人の雄族。ふみ氏は、なかでも文筆を家業とする)を、百済の弔使のもとに遣わして、百済の消息を聞かせた。

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