太安麻呂の野心 二
「もう、これ以上、安麻呂が書紀編纂にかかわっていたかどうかというという検討はやめよう。これ以上検討しても、書紀をいじくり廻した犯人が見つかりそうもないし、言うならば太安麻呂が一番くさい奴なんだ。それは、今までの検証でも納得してもらえると思う。祐司君はどうだ。だれか他に想定できる人物はいるかい。僕は他に書紀を書いたと思われ容疑者を持たないんだ」
「そうですね、藤原不比等説もありますが、時の筆頭者が政務で忙しいのは、今の首相も昔の大臣も替わりはないと思いますから、まず時間的に無理ではないでしょうか。それに安麻呂と違って不比等が書いたという歴史資料も見あたりません。それに安麻呂は文書の家の子として育てられているところは、不比等と違いますね。安麻呂は漢文に関しては、徹底した教育を受けているはずです。
「そうだね。やはり第一の容疑者は太安麻呂だ。律令と国史の完成を目指していた藤原不比等は、重病にかかっていた。このままでは、どうやら、自分の生存中にはとても国史の完成は無理なのではないかという焦りがあった。太安麻呂はそのような状況のなかで、編纂をまかされた中心人物であったのだと思う。安麻呂の行く道をふさぐ者はいなかったに違いない。だから、書紀の中には、書紀の精神を守りつつ裏切る記事が多数見つけられるのだと思う。今は太安麻呂の野心について述べないで、不可解な書紀の記事を取り出してみようと思うんだ。・・・そうすれば、太安麻呂の野心・・・つまり本心だね、それがにじみ出して来るのではないかと思うのだよ。
僕が思うに、日本書紀は、中国の易姓革命の思想、つまり帝王の権力は天から与えられたもので、帝王が政治に失敗すれば、帝王の家を別なものにしても良いという思想なんだが、それに対立する万世一系の思想を歌い上げた書なのだ。
完成しつつある大和王朝には、中国で興亡をくり返す中国諸王朝が見えていた。この思想に立つ限り、大和国王朝もまた、中国と同じように、いずれ他の王家にやすやすと取って代わられる事は間違いない。日本書紀が中国の歴史書と違う点はまさにここにあるのだね。日本書紀はくどいくらい、神世の昔から、大和王朝の血筋のみが神から与えられた国家統治の資格だと述べている。これは、配下の人々に対する洗脳の書なのだね。大和王朝と別の王国である出雲王朝ですら、神の時代に、つまり大和国の祖アマテラスと出雲国の祖スサノオが兄弟ということで、大和王朝の親族にされている。日本書紀はこのように全ての王家、部族は、大和国の派成であると位置づけることによって、大和国の血筋こそは王家にかかせないものであると主張するのだ。こうした事を総合して書いたのは太安麻呂であり、そしてまた出雲王国を抹消することなく、九州の原大和国の存在をあからさまにするのも、継体天皇の別氏でありそうな出自を克明に書くのも太安麻呂なのだ。こうした二面性のある謎に満ちた矛盾の書を太安麻呂は作ったのだ。つまり太安麻呂はそのような人なのだ。日本書紀の目的は完遂させたい。けれど歴史の真実は書きたいという矛盾した存在が安麻呂であるという事なのだね。安麻呂は、神武に直接つながる血筋だから、古事記・書紀には書かれていない『真実の歴史』を知っていたに違いない。捏造された歴史を書きながら、一方では失われて行く本当の歴史に強烈な哀愁があったのではなかろうか」