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太安麻呂の野心 一

 三日後の午後、久々に、祐司と沙也香が一緒にやって来た。

「おや。おふたり一緒でデートですか」

「いや、デートというのでもないですよ。歴史同好会といったところですか」

「梅も咲き始めましたし、少しマニアックな鎌倉散歩をしたんですよ。江の島に近い腰越こしごえに行きました。ここは源義経が西国から帰ってきて、源頼朝に差し止められたところなのです。頼朝に切々とした嘆願状『腰越状』を書いたというので有名で、今も義経が泊まったと言われる満福寺まんぷくじが残っているのですね。そこを訪ねて、そこから歩いて鎌倉駅に近い、江ノ電の和田塚わだつか駅まで行きました。ここは、頼朝の重臣で鎌倉初期に北条氏と覇を争って滅びた和田一族が葬られていて、住宅地の小さな林の中に墓石が立ち並んでいるのです。調べて見ましたら、明治二十五年、新道を作るために土木工事をしていたらおびただしい人骨が出てきたらしいのですね。おそらくこれはこの地で滅びた和田一族のものではないかと、墓がつくられたというのです。それで和田塚というのですね。けれど、行ってみますと古い墓石が林立していて、私には、和田氏自害の場所だったのではないかと思えました」

田沼は言った。「そうだよね。歴史も犯罪事件と同じで、現地を見ることが大切という言うことだな。・・・僕は『源実朝』を書いた時、頼朝が最初の負け戦をした、真鶴近くの石橋山を現地調査した事があるんだ。そこには、頼朝の家来の霊を祀る『佐奈田霊社』というお寺があるのだが、そこの山主さんで原義照さんという方のはなしによると、歴史の正史では、頼朝は平家の追っ手を逃れるために、芦ノ湖の箱根神社まで逃れたという話になっているのだが、頼朝は芦ノ湖まで逃げていないらしい。現地の言い伝えでは、このお寺から少し山に入ったところに箱根神社の分社があったそうなのだ。そこへ逃げて、山伏に助けられたというのが真相らしい。おそらくこの節は正しいのではないかな。この石橋山から芦ノ湖までは山道をどんどん上がっていかなければならない。重い甲冑をつけた少数の頼朝一行が逃げてゆくのは非常に困難だからね。・・・ちょっと現地に足をのばしてみればこのような話がごろごろ転がって居るのだから、現地に足を運ぶことは大事だね。・・・しかし、まあそれは学研的なデートだったね」

「田沼センセ、デートではありませんてば!ね!」と、沙也香赤くなって祐司を振り返って見た。

「そう言いはると、ますます怪しい。怪しくても僕は困らないよ。君たちが一緒になってくれれば僕はうれしい」

祐司が遮るように言った。「まだ僕たちは・・・」

「これは、結構本気だよ・・・ま、いいか。さて話を先に進めよう。今日はせっかく三人集まったのだからね。」

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