古事記と日本書紀の関係 二
祐司は言った。
「先生の結論では、古事記は日本書紀より遙かに先んじて編纂されたということですか」
「そうだね。その古さだから、太安万侶が編纂したという序の記事は当然嘘だ。すでに古事記の本文に近いものが、あったところに多少手を加えた上で、誰かが、序文を書き、恐らく多氏のだれかが太安万侶の名を用いて、本文にくっつけたと言うのが真相じゃないのかな。この作業が行われたのは、当然、太安万侶の没年以前ではない。むしろ、ひょっとするとずっと後世の事であるかも知れない。なぜなら、禁書であった書の序に多氏の手が加わった事が丸見えの『序つき古事記』のような書を所有することは、多氏にとって危険きわまりないことであったからだ。禁書を所有することは大赦でもゆるされぬほどの大罪であったのだからね。書紀は平安期を通じて序のない形で陰蔵され、朝廷の力が衰えた鎌倉期近くに序が付け加えられたとのだと思う」
「そうですよね。わざわざ犯罪の証拠を残すような犯人はいませんね。だから、『禁書』という時代が過ぎた後に、序の部分が付け加えられたと推理するわけですね。ところで、この序を付け加えたのが多氏であるというのは何故ですか」
「朝廷で重要な文書の家であったということは、鎌倉時代に入っては、ますます重要視されるようになったんだ。源頼朝は、鎌倉幕府の代表官僚に大江広元など、平安朝の文官らを多数招いている。鎌倉幕府をつつがなく運営するためには、京都文官の智恵はかかせなかったのだね。これは平氏隆盛の時代でも、もう少し前の平安後期であっても同じであった。古事記を歴史の闇から引きずり出して太安麻呂名で序文をつけることは多氏の文官としての名を高め、多氏にとっては利の多いことだったに違いない」
「多氏繁栄の為に、『禁書』の呪縛が解けた平安後期か鎌倉時代に入って、多氏が隠し倉庫から、『古事記』を引きずりだしてきて、序文を書き、付け加えたということですか」
「そう、そう、そう言うことだよ。平家は、平安朝廷の文官の智恵、つまり平安朝廷の政治を大事にしないで、突然やみくもに地方豪族や寺社荘園や貴族荘園といった権力をもぎ取ってしまったから、猛烈な四面楚歌になってしまったのだ。それであればこそ兵を持たない頼朝が伊豆で平家打倒に立ち上がってから、あっというまに鎌倉幕府が成立してしまったんだよ」




