太安麻呂の出自は本当か 三
。「彼ら一族のうち、太朝臣安麻呂は『古事記』撰者として知られ、近年、奈良市比瀬町田原の地から『左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣以癸亥 年七月六日之卒 養老七年十二月十五日』と記した墓誌が出土した。
なお、久安五年(1149年)三月十三日の日付の『多神宮注進状』という文書草案に『天武天皇即位十三年に天下万民の姓を改め多清眼十一世の孫、小錦下品治多朝臣の姓を賜う。和銅五年五位上太安麻呂(品治子也。安麻呂、氏を改め多の字を太となし、旧氏名にもどるという)古事記三巻を勅撰し、之を献上する』という記事がみえる。・・・えーと、安麻呂が親の代まで多氏を名乗っていたのを太氏に変えた書いているのだね。同時に太氏は古来の字であったと言うことも書いてるね。この『多神社注進状』は、多神社に残っていて、久安五年に禰宜(神社を代表する神主)多朝臣常麻呂が国司に、神社のいわれ等を書いて提出したものなんだ。1149年というと、まさに鎌倉幕府が起こる40年ほど前で、平安朝末期の動乱の時代だね。多神社の正しい名称は『多坐弥志理都比古神社』と言って、『王になられる身を退けた方の神社』という意味なのだと言うね。その方と言うのは神武天皇の長兄の神八井耳命のことで、ここで注意しなければ成らないのは多が王の意味に使われていることだ。この神社の創建は古く神武の第二子の綏靖天皇二年であると伝えられている。この神社が出来た頃は、神社名は『王坐弥志理都比古神社』と呼ばれていた可能性は高いのではないだろうか?・・・
また、阿蘇家略系譜に神八井耳命より安麻呂に至る系図が次のように記されている。
神武天皇ー神八井耳命ー彦八井耳命ー彦八井耳命ー武宇都彦命ー武速前命ー敷桁彦命ー武恵賀前命ー武諸本命ー武敷美命ー武裳見足尼臣ー稲見臣ー毛建臣ー石持臣ー豊忍臣ー宇気古臣ー品治ー(安麻呂・道麻呂・宅成・遠建治)
始祖の神八井耳命については、『古事記』神武天皇の段に『神八井耳命は、意富の臣、小子部の連、坂合部の連、火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三宅の連、雀部の造、小長谷の造・・・・・・の祖』と見える」
祐司はここまで聞いて叫んだ。「そうか、『多氏』に関するウイキペデイアの記事と新撰姓氏録の記事の出所は、古事記だと言うことが今わかりました」
「そうだね、ウイキぺデイアの『多氏』の記事の出所は、『新撰姓氏録』であると、ウイキペデイアが欄外に書いている。そして『新撰姓氏録』を読むと『多氏』についてのの原典は、古事記だと言うことが解るね。これに比べると日本書紀では綏靖天皇即位の記事に以下のようにあるのみだからだ。
神八井耳命は帝位を神渟名川耳尊(綏靖天皇)にゆずって言った。「私はあなたの兄であるが、つたなく弱く能力がない。いまあなたは特に優れて神々しく勇ましい。あなたは自分の力で悪を誅した。だからあなたが皇位を継ぐことを宣言しよう。私はあなたの助けとなって神事の司を致しましょう」と言った。これがすなわち多臣の始祖である。
日本書紀では、多氏を特筆しているのだ。しかしながら、その一方で、多氏に関連のある諸氏を完全に削除しているのは変だね」