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太安麻呂の出自は本当か? 二

 それから三日たって祐司の代わりに昼頃、女子学生が本を届けに来た。授業で見覚えのある学生だった。自分で早見桜子であると言った。田沼の日本文学の授業を受けているとのことだ。

田沼は、婦長に珈琲を入れてくれるように頼み、先日の頂きもののクッキーを添えて出した。コーヒーを飲みながら女子学生は歌の原作である作詞者になりたいと言うことを田沼に語った。そして自分の書いた詩だといってプリントした十ばかりの詩を渡して帰って行った。

 田沼は、通常ならそうしたした話に、結構親身になって乗るのだが、今日は早見桜子の持ってきた一冊500ページ全6冊の茶色の重々しい本にチラチラ目が行って、いくらかいい加減な対応になってしまった。いささか、学生に申し訳ない思いを抱きながら、田沼は応接セットのテーブルに重ねられた「新撰姓氏録の研究・考証篇」昭和57年初版・佐伯有清さえきありきよ著を早速手に取った。


 それから二日後の日曜日、十時ごろから祐司は早々やって来た。

「田沼先生、どうでした。なんらかの成果がありましたか?」

「いや、この三千ページに及ぶ著作から『多氏おおし』の項目を捜すのに一苦労したよ」

「そうですか。それはご苦労様でした」

「好奇心は若さを保つ秘訣だからね。頑張ったよ。・・・また、例によって著書の文をひいてみようか。その前にこの本の著者についてウイキペディアの記事を調べて見た。この膨大な著書に、自己紹介がないからね・・・えーと、大正14年(1925年)生まれで没年が平成十七年(2005年)7月19日。 東京市赤坂に生まれ1952年に名古屋大学国史学科を卒業。1957年に東京大学・大学院国史学専攻終了。1962年に文学博士。1952年に母校の法政大学第二高校に赴任、同校の校長を経て1971年より北海道大学の教授。1983年より成城大学の教授となり1995年退任。吉川弘文館で数十冊刊行し、『新撰姓氏録の研究』で日本学士院賞(1984年度)を受賞している。『日本古代の伝承と東アジア』『日本古代の祭祀と仏教』『日本古代の社会と政治』『岩波文庫・三国史記倭人伝の訳・解説』などが代表的著作だということだ。


 さて、この本の紹介に移ろう。第一巻、423頁に次のような記事があった。


 多朝臣おおあそんおくりな(死後つけられる名前)神武の皇子、神八井耳命かむやいみみのみことの子孫。日本紀の記事に合致する。

 多の氏名は、太・意富とも書き、後の大和国十市郡飫富鄕の地名にもとづく。朝臣はもとは臣で『日本書紀』天武天皇十三年十一月の条に『多氏ら、天皇姓賜う朝臣の姓』とある。

 多朝臣の一族には、多臣蒋敷(書紀・天智天皇即位前記、斉明天皇七年九月条載)多臣品治(書紀・天武天皇元年六月条載)太朝臣安麻呂(続日本紀・慶雲元年正月条載)太朝臣遠建治(続日本紀・和銅七年十二月条載)太朝臣国吉(続日本紀・天平九年九月条載)太朝臣徳足(続日本紀・天平十七年正月条載)多朝臣犬飼(続日本紀・天平神護元年三月条載)多朝臣豊人(宝暦七年五月十日『小野川根啓』載)多朝臣鷹養(天応元年八月十二日の『出用帳』載)多朝臣入鹿(『日本後記』延暦二十四年十一月条載)多朝臣人長(『日本後記』大同三年十一月条載)らがいる。

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