新撰姓氏録と太安麻呂
「パソコンのウィキペディアは、便利で良く利用するのだが、歴史上の謎や争点に成っていることについては不得意だ。それでも調べごとのヒントにはなってありがたいね。そのウィキぺディアによると『新撰姓氏録』は平安初期の弘仁6年(815年)嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑だ。主な1182氏を、その出自により『皇別』『神別』『諸蕃』に分類してその祖先を明らかにし、氏名の由来、子孫などを記述したものであるというのだね。残念ながら『新撰姓氏録』は、本文は残されてなく、目録といくらかの逸文が残されているだけらしい。書名に『新撰』とあるのは、計画倒れで終わった『氏族志』を、あらたに企画したという意味らしい。・・・まあ、そう言うことで、『新撰姓氏録』の研究書を僕はあたってみた。吉川弘文館から昭和37年の出版された佐伯有清『新撰姓氏録考証』の『皇別・朝臣』の条に、『多朝臣』とあって『出自謚神武皇子神八井耳尊後也』とあるのだね。多氏は神武天皇の皇子の子孫なのだ。神武天皇はいうまでもないことだが、九州から近畿に向けて東征した初代天皇だね。・・・多氏と太氏は同名だ。これは、古代にあっては氏に表記する文字がなかったから、ただ発音で『おお』と呼ばれていたからだろうね。ここから僕が思うのは、『おお』氏と呼ばれていたことは、大変重要な問題を孕んでいるのではないかと言うことだ。『おお』は『王』に通じはしないかね。つまり多氏は『王』家そのものであった可能性があるね。
ウィキペディアでふたたび『多氏』を開いてみると以下のようだ。
日本最古の皇別氏族とされている。多、太、大、意富、飯富、於保(春野註・このいずれの読みも、おう・おう・おお・おふ・おほ・であることに注目して欲しい。このように漢字で多様に書かれるのは、この氏が、漢字導入以前の氏で漢字の姓を持たなかった証拠ではないだろうか)とも記され、九州と幾内に系譜を伝える。
多氏は皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の子孫とする。神武東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長男の手研耳命は九州南部を賜った。邪馬台国の女王、卑弥呼も、多氏の一族であるという説もある。(大田亮『姓氏家系大辞典』・角川書店・1963年)多氏から別れた家に、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・鈴部氏・雀部連・小長谷部・都祁直・伊余国部・科野国造・道奧石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・嶋田臣など、全国の国造などが多い。
・・・といった内容だが、ここで注目すべきは、九州の火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連といった家名が出てくることだ。
そのほか多氏に関連した記事では、『新撰姓氏録逸文』に応神天皇の時、後漢の阿智王が七姓の漢人をひきいて渡来したとある。七つの姓とは朱・李・多・皂洛・皂・段・高であり、ここに多氏の姓が見える。これは神武天皇と帰化人が関係があることを暗示しているのであろうか。今は、これについてはふれない。とにかく、今は多氏は九州と濃厚な関係があったという事を強調しておこうか」