ずさんな、天智紀の編集
大学の研修所は、学生が使わない時は、老夫婦二人と料理専門の中年の女性の三人が常駐していた。もう少し暖かくなると、学生の宿泊体育授業なども始まって、近所に調理のパートをお願いするのだが、いまはこの三人でやりくりしているのである。たまに、教授の家族や教授の引き連れた学生のゼミの一行がくるだけである。ガランとした研修所で三人は風呂に入って、食事を済ませた。キンメの煮付け。刺身盛り合わせ、地野菜の炊き合わせ、サザエの壺焼き、アワビの醤油つけ、数の子わさび、それに若い二人はビール、田沼は糖尿病の悪化を恐れてウイスキーの水割りである。やはり、伊豆の魚介は新鮮でうまい。田沼はあまり飲むなと院長に言われていたのだが、やはり、少し飲み過ぎとなってしまった。それでもう一度風呂に入ってから、田沼と祐司の部屋に沙也香を呼んで「研究」を進めることになった。今晩はみな浴衣姿である。場所柄、ビールを飲みながらのくつろいだ席である。
「藤原不比等は日本書紀の編纂を急いでいたね。不比等が健康ならば、日本書紀完成までまだ何年もかかる状態であったことは書紀の文からも読み取れるのだ。それは、巻24~巻27に現れる『云々』の多さだ。この『云々』は、どちらかと言えば、まだ書きかけであることを表す『などなど』と訳すにふさわしく、まだ追加の記事を検討中であったのが、編集されず残されてしまったと考えられる。これは27カ所に及ぶ数の多さである。このような『云々』が残されてしまった背景は、撰上前の書記全文の点検が疎かだったからである。研究者の坂本太郎氏は『天智紀の資料批判』(1955年)で、次のように書いている。
天智紀を一見して気づくことは、この巻に欠陥が多く、未定稿と呼んでもいいような杜撰な所が多く見れることである。
坂本氏はその例といくつかを紹介している。
①天智の称号に言及して、本来なら『皇太子』と書くところを天智3年2月の条に『天皇命大皇弟』と、記している。
②臣の『鬼室の叙位』に関して4年2月条と10年正月に叙位の記事があるが、ともに『小錦下』で重複している。
③『長門・筑紫の築城』について、4年8月条と9年2月条で重複している。
④『高安城修築』について6年10月・8年8月・8年是冬・9年2月の4条があるが、8年8月の条には『民の疲れているのを思って、修築を止めて、作られなかった』とあるが、これは次の8年是冬の条と9年2月の条と矛盾してしまう。
⑤『藤原内大臣』について、鎌足は8年10月の条で内大臣と藤原の姓を賜っているのに、これ以前に、『藤原内大臣』を冠する記事が3条もある。
と、まあこのようなのだね」