河津桜の研修所
もう三月になろうとしていた。朝の海は春の日射しをうけて、力強く輝いている。沙也香が言った。「先生、録音聞かせて貰いました。なかなか良い進み方じゃ、ありませんか」
「そうかい。それではまた少しは小遣いが入ってくるかな。以前はね、僕の収入といったら、詩集のちょぼちょぼと翻訳のちょぼちょぼだった。けれどこの頃はエッセイと鎌倉クリニックシリーズで僕のふところもだいぶ潤うようになったよ。これも沙也香君のおかげだな」
「いいえ、私のおかげなんかじゃありませんよ。先生のキャラクターが読者を引っ張っているんだと思います」
「そうかな、のんべえな詩人がそんなにいいかな。まあ、唐の高名な詩人、李白先生の詩を読むと、酒の歌ばかりだものな。李白先生は酒にたくして、金や名誉を追い求めることのむなしさを歌っているものな。今時のサラリーマンなどには、李白の詩は良いかもな」
祐司が突然入ってきた。そして急に話し出した。「田沼先生、伊豆にある大学の研修所が、いつでも利用できます。突然ですけど、河津の早咲き桜を見に行きませんか?都合の良いことに、僕がその保養所の責任者なんですよ。先生も講師ですから大手を振って利用できますね。ああ、今日は土曜日でしたね?それでは沙也香さんもいかがですか。研修所は部屋がいっぱいありますから、我々と一緒でなくても泊まれますよ。僕も責任者の手前、行かねばならないのです。たまには、学生達の食事のメニューなどもチェック入れねばならない事もありますし・・・」
「そうだね、良いね。今ね、酒と花に酔う唐詩人李白について、沙也香君と話していたところだよ。飲み過ぎなければ、飲酒の許可も病院から出たところだから、一献いきますか。沙也香君と部屋が一緒だともっといいのだがね」
沙也香は、田沼をキッとにらんで言った。
「このヒヒジジイとヒヒ息子、お二人と一緒の部屋ではあぶないから鍵をしっかりかけて寝ます。それで良ければお供します」
三人はのんびりと各駅の東海道線に乗って行った。車両は少し贅沢にグリーン車である。田沼は駅の売店でウイスキーの水割り缶三本とチーズたらのつまみを買ってきた。飲みながら小田原まで東海道線で行って、そこからは伊豆急に乗り換えた。三人は研修所に向かわず、桜の咲く河津に行った。
河津の一キロの河の両側は赤みを帯びた河津桜で覆われていた。比較的早い時間であったので、人出はまだそれほどではなかった。土手の端に桜の木が植わっている。土手と清流の河の間には菜の花がびっしり咲いていた。桜の木々の高みには周囲の山々が緑色の姿で立っている。
「私、河津桜は初めてなんです。ここは随分きれいなところなんですねー」沙也香の声は少女のように弾んでいる。
「河津桜満開の頃は、僕は一人で、ここに来ることがおおいのです。役得ですね。雑用の多くてわずらわしい校務ですけど、これでいくらか救われます。それに学校から電車賃もでますし・・・」
「いいですね。私も先生のお供ということで交通費請求しようかしら・・・でも、出版社の仲間に、先生との仲を疑われてもなー」
「大丈夫だよ、僕は人格者だから、それにもう、女の子には興味が薄れてきているし・・・」と、田沼。
「あら、会社の連中には、先生には気をつけろよといわれてますよ。僕は年で安全だからといって、接近するとか」
「それは・・・」田沼は言葉がつまってしまった。
「それは、もう十年も前だよ、沙也香君の前の担当の人でね、僕はちょっと好きだったから・・・もうその話はいいよ」
三人は河の桜を見下ろせる足湯でくつろいだ。その後、海岸の方に立つ研修所に向けて歩いていった。
横には東急今井浜ホテルが建っているところであった。
「ああ、ここか!このホテルは前に泊まったことがあるね」と田沼が言った。
「一級のホテルが建っている松の海岸に研修所があるなんて良いでしょう?」
「うん、気に入った」
「ほんと、素敵!」
となりの研修所も、ホテルのような建物であった。