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書紀書き換えの主導者はだれか? 三

「森先生の話は続くよ・・・こうして天智の権威は復活するのだが、書紀には中大兄皇子の時代の失策や後悔も残されている。その中で興味深いのは蘇我石川麻呂が無罪の罪で自殺する事件とその後日譚だ。石川麻呂は蘇我馬子の孫で、蝦夷えみしの甥にあたる。娘の遠智娘おちのいらつめは持統を生み、もう一人の娘は元明を生んでいる。石川麻呂は蘇我氏であるのに蘇我入鹿暗殺の謀議に加わり、孝徳天皇の親政権の右大臣となった。しかし大化五年三月に右大臣の阿倍内麻呂が亡くなると、謀反ありと告げ口された。

 皇太子中大兄皇子はこれを信じ、石川麻呂にむけて討伐軍を起こした。石川麻呂は交戦を説く長男をおさえ『また転生しても、私は君主を恨まない』といって自殺した。事件後に中大兄皇子は石川麻呂の貞潔を知り後悔し恥じたという。この事件の真偽は不明だが、持統などに配慮して、美しい話に変えられている。

 こうした天智の復権と、いまだ未完成の部分について書紀はあわただしく書き換え、編纂が進んでいたが、律令と国史の完成を目指す折も折、最高責任者藤原不比等が重い病にかかってしまった。『続日本紀』の養老四年(720年)三月十一日の条に


 勅して三百二十人出家せしむ。


 と、ある。当時、貴人の病気平癒祈願には、官人などを僧として出家させるのが常であった。(春野註・それにしても320人の出家はおおがかりなものであった。これは不比等の病状が重い事を示しているのではないだろうか)不比等は大病を得て、焦ったことであろう。律令と国史の編纂は、当面の国家の重大事業である。律令はすでに『大宝律令』が完成し、改訂版である『養老律令』の編纂にも着手しているが、もう一方の国史『日本書紀』は、いまだ完成にはほど遠い。和銅七年(714年)書紀編纂に追加人事を行ったが、はかばかしくない。国家と藤原氏の長期の繁栄のためには、立派な国史が不可欠であるのに。

『日本書紀』は、いまだ完成とは言えぬ状態ながら、養老四年(720年)五月二十一日、元明太政天皇に撰上された。この年十二月七日藤原不比等は亡くなった。六十一才であった。・・・と、まあ、ここまでが森先生の研究なんだ。この研究によれば、藤原不比等は、日本書紀の編纂を、自分の生存中に終えたかったのだね。書紀はまだまだ不十分ながら完成を急がされたのだ」

 

 祐司は感に耐えないというという、驚きの表情をした。そして言った。

「そうなんですか。書紀の記述の整合性のなさは、すべてそこに帰結するんですね。やっと解りました」

「やれやれ、少し疲れたね。今日はこのぐらいにして、そこらへんに珈琲でも飲みにいこうか」

「そうですね。そろそろ五時だというのに、まだ明るいですからね」


 

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