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書紀書き換えの主導者はだれか? 二

「皇族では元明が最高の権威を持っていた。元明は天智の皇女で持統の異母妹。天武と持統の子である草壁皇太子の正妃となり軽皇子(文武)を生んだ。697年8月1日、持統は文武に譲位してだ太上天皇となる。同月、不比等は娘の宮子を文武の夫人として入内させ、701年におびと皇子(聖武)が誕生する。707年6月に文武が崩御し、翌月に元明が即位した。元明と不比等は孫の首皇子に皇位を継承させることで利害が一致している。715年元明は娘の元正に譲位して太上天皇となる。元正は未婚で有り、聖武への中継ぎ天皇であった。書紀は養老4年(720年)5月21日に撰上された。同年8月3日に不比等が亡くなり、翌年12月7日に元明が崩御する。書紀撰上時の最高権力者は元明と不比等、利害の一致するこの二人であった。

 天武は天智が開いた近江朝を壬申の乱によって滅ぼし、飛鳥浄御原宮で即位した。絶大な権力を握り、天皇中心の専制国家作ろうとした。まず天武10年(681年)2月に律令撰修の勅を出し、3月には国史撰修の勅を出した。律令と国史は車の両輪であった。国史によって過去を総括し、律令によって新時代を統治しようとした。これによって天武はその頂点に立ち、比類ない権威を持続するはずであった。

 ところが、文武朝になると、天武の権威は不動のものでなくなり、天智の権威が復権する。藤堂かほる『天智稜の営造と律令国家の先帝意識ー山科稜の位置と文武三年の修稜をめぐって』(1998年)には、『文武3年、天智天皇の山科稜が藤原京中軸線の真北に造営された。このことは天智が律令国家の受命の天子で有ることを象徴するものであった』と書いている。当時、持統は譲位して太上天皇として藤原京で十七才の文武を後見していた。山科稜の営造は、文武の父、天智を天武以上の位置につけるものであった。また、藤堂氏によれば、『大宝律令』制定時までは天武の忌日のみが国忌日とされていたが、あらたに天智の亡くなった日が国忌日に追加された。『続日本紀』大宝二年(702年)十二月三日の条に次の記事が見える。


 勅して曰く、九月九日、十二月三日、先帝の忌日なり。諸司はこの日にあたり、職務をはなれよ


 両日は天武・天智の亡くなった日である。天智は復権し、律令国家の初代皇帝と見なされるようになったのである。なお、持統はこの勅の二十日後に亡くなった」

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