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書紀書き換えの主導者はだれか? 一

「はっきり言って『日本書紀成立の真実・書き換えの主導者は誰か』の本で僕らに面白いのは最後の一部分だね。僕が思うに、森先生の研究は隘路に入ってしまったように感じるね。もう少し面白い展開を期待したんだけど残念だね。まあこれからの究明に期待することにしよう。しかし見るべきものはあるね。それについて話そう。全五章の四章までは、ほとんど述作者の、さらなる掘り出しに費やされてされている。しかし僕らには述作者がだれであろうと、関心事は、オリジナル文章を書いた人間なのだ。オリジナルを書いた人間として一番濃厚な存在はやはり太安万侶ではないかな。森先生は不思議なことに、両著作で太安万侶に全然言及していない。ここら辺をもう少し掘り下げて欲しかったね。僕が考えるに、日本書紀のオリジナルを考えた人間は、書紀の成立目的にそむいている面があると思うのだ。それが書紀の『魔』だ。それは書紀の端々に現れているんじゃないかな?

  

 さて、まあ、僕の意見はこのぐらいにして、重要な部分を読んでみよう。これは、この本の第五章三節の「編纂の主導者は誰か」という部分なんだ。これを要約してみよう。


 では、編纂を主導した者は誰なのか?『続日本紀』は次のように書紀の撰上を伝える。養老四年(720年)五月二十一日の記事である。『これより先、一品舎人親王、勅(命)をたまわって日本紀を修めたまわった。ここに至って功なり、紀三十巻・系図一巻を奏上なさった』この記事によれば、天武の息子、舎人親王(676~735)が書紀編纂所の総裁格であったことが解る。その他の構成員は記載されていないが、『大宝律令』の編纂が参考になる。『続日本紀』文武四年(700年)六月の条に行部親王・藤原不比等らに勅して律令を選定指せ、禄を与える記事がある。そこに上げられた主な人名と位階は次のとおりである。行部親王(正五位上)藤原不比等(正四位下)栗田朝臣真人(従四位上)下毛野朝臣古朝呂(正五位下)伊岐連博徳(従五位下)伊余部連馬養(従五位下)薩弘恪(正六位上)土部宿禰甥(従六位上)などである。天武の皇子、行部親王を筆頭にあげているが、それは建前上のことで、不比等が筆頭と思われる。書紀を撰上したという舎人親王も多分に名目的なものであると思われる。最も重要なのは、書紀撰上時(720年)の権力者である。元明太政天皇と元正天皇の下、朝廷の第一人者は右大臣藤原不比等であった。717年三月に左大臣石上朝臣が亡くなると、左大臣空席のまま、不比等の第二子房前(ふささき)が朝廷の要職に参加することになった。



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