森博達先生の旧刊での結論 二
「森先生は次のように言う。何故巻十四雄略紀から始めたのか。雄略朝が古代の画期であるからである。『万葉集』も雄略の歌で始まっている。その後、巻二十四孝徳紀から始めているのは、それがもう一つの画期であるからだ。皇極朝の蘇我入鹿の暗殺がきっかけとなって大化の改新が始まっている。それゆえ非常に大きな画期だ。
同じα群でも、巻十四~二十一と巻二十四~二十七とでは表現に違いがある。書を引用する時の言葉のひとつ『一本云』は二十一例あるが、その全てが巻十四~十九にある。また祖先を表す『先』は十三例あるが、全て巻十四~二十一にある。これとは逆に『皇祖母』は十四例すべてが巻二十四~二十七にあります。それで、巻十四~と巻二十四~は述作者が異なることが解ります。
巻十四からの述作は続守言が担当したのではないだろうか。何故かと言うと巻二十六斉明天皇七年十一月の条の注が、その根拠となる。書紀のその記事は以下のようである。
日本世紀に云わく、十一月に鬼室福信(百済の上級武将)が捕らえた唐人続守言らは、筑紫に至るという。また或本に云わく、この年、百済の福信が献上した唐の捕虜106人、近江の国墾田に住まわせた。この前年にすでに福信は唐の捕虜を献上したという。それでここに注をおいた。日付を訂正せよ。
この文書は明らかに、続守言が書いたものではありえない。なぜなら、本人が書いたのなら、このようなあやふやな記事にはならないからである。したがって巻二十四以降は他の中国人によって述作されたことが判明する。それに該当するのは薩弘恪以外にはいない。そうすると、薩がこの条を書いたときには、続にこのことを確認できなかったのである。続はすでに亡くなっていることが推測できる。それを裏打ちするように文武四年(700年)の『大宝律令』選定者に薩の名があがっているが、続の名は見られない」
ここまで田沼はメモを読んできて目をあげた。そして言った。「まあこのほかにも、たくさんの重要な事が書かれているんだが、詳しくは本書を読むしかないね。我々の研究では、いままでの事で事足りると思うから、このぐらいに留めておこう」