森博達先生の旧刊での結論
「森先生の旧刊での結論は、次のようだ。日本書紀の第一巻から第十三巻と二十二・二十三巻をβ群、十四・十五・十六・十七・十九巻と二十四・二十五・二十六・二十七巻をα群と別けた上で、それぞれの述作者を割り出している。先に記述された方を、森先生はα群と名付けたことは、すでに僕らは知っているが、このα群は、音が表記される書中の歌謡・訓注の分析によって、中国の唐時代の北方地域の発音が用いられていることが解った。α群の文章は正確な漢文でつづられているが、水をミツ、枝をエタと表記し、妻を『妹』と呼ぶ習慣も知らなかったことから、唐から渡来したばかりの、中国人によるものである。この中国人とはだれか?
養老律令(718年編纂の法律)の、学校規則である『学令』には、まず学生は音博士に漢字の音を習い、十日に一度の試験を受けなければならないとある。その後、講義が始まるという。最初の音博士は七世紀末の続守言と薩弘恪という二人の唐人だ。書紀によれば続守言は660年の唐・新羅連合軍と百済との戦いで捕虜になり、百済から献上されて斉明天皇七年(661年)十一月に日本にやってきた。(前年十月の説あり)もう一人の薩弘恪の来日の経緯は不詳である。 続・薩、両名は持統三年(689年)六月十九日に朝廷から稲を賜っている。これはこの十日後の六月二十九日に『浄御原令』が完成したことや、薩が後年の文武天皇四年(700年)に『大宝律令』編纂に参画し、禄を賜った記事(続日本紀に載っている)から推測するに、両名が浄御原令作成に尽力した結果と考えられる。
両名への報酬は相次いでいる。日本書紀、持統天皇五年(691年)九月四日の条には銀二十両を賜っている。その一月前の持統天皇五年八月十三日に朝廷は十八氏にたいして、その祖先の事績について提出せよと命令を出していることから考えると、両名への報酬は、書紀、述作への後押しであろう。翌六年十二月十四日には水田四町をも賜っていて、褒賞は実にひんぱんであった。
国史編修所については西暦980年ごろ作成された『新儀式』という書の『修国史事』に次の記事がある。
国史を作成するには、天皇の何代にもわたる。まず国史作成者を定める。筆頭の大臣、担当の高位貴族各一人とすぐれた書記一人とをこれにあてる。さらに、これを補佐するために筆の立つ者を諸官から四・五人ほど選び、その所に居させる。
この文によれば、大臣・参議の監督の下、優れた書記、つまり博士一人が述作を担当したことが明らかであるから、続と薩はα群を二分して述作に取り組んだ事が、推測されうる。一人が巻十四雄略紀から担当し、もう一人が巻二十四皇極紀から担当した。