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日本書紀の文書から述作者を割り出す 五

「中国では古代の後を中古というのです、それは隋の時代も含まれるのですが、その時代、仁寿元年(601年)に作られた『切韻』(せついん)という何万という漢字に190種の発声法を記した発音辞典が、作られました。これは中国の官吏登用試験である科挙かきょで一番重きをなす詩作の為につくられたのです。漢詩では韻を踏むという詩の語尾を同じ発音でくり返すという事がなくては、漢詩として認められません。微妙に発音がちがっても韻を踏んだことにはなりません。それで漢字の発音をしっかりおさえるためには辞書が必要となるのですね。『切韻』はまさにそのために作られたものなんです。、詩人の田沼先生には常識だと思いますが・・・」

 

 田沼が口を挟んだ。「そうだよ、現在では韻を踏む(音をところどころでくり返す)と言うことは詩の重要な要素ではなくなってしまったが、古来、中国でも西洋でも、韻を踏むことは、散文(普通の文章)が詩となるための欠かせない条件だったのだね。しかしながら、日本語は膠着語こうちゃくごという、単語を『に』とか『へ』とか『も』とかいった糊的言葉で、言葉をくっつける文法を持った言葉で、韓国語・モンゴル語・トルコ語・フィンランド語・トルコ語も言葉がそうなんだが、この言葉の特徴として、さいごに語尾に『ます』『です』的言葉がつくので、韻を踏む事が困難なんだな・・・それらの国では詩がどのようになっているか、そのうち調べてみようと思っているのだが・・・それだから日本では、言葉にリズム感を出すのに、語の長さ・・・五・七といった言葉の長さにたよったのだな。現代詩は五七調すらも捨てたから、詩がますます散文みたいになってしまった。悪いことに当今の詩人には言葉の調べや、ほどよい長さを大切にする気持がないものだから、現代詩そのものが印象の浅いものになってしまっているのだね。・・・それで詩人は食えず、俳諧師・歌人は食えるわけだ。(ハハハ)・・・余談はさておいて、韻を踏む詩の為には、190種というような発音があることは、声を出して読まれる詩を美しいものにするだろうね。現代の日本語などは発声は50音にすぎないのだから、単調だね。奈良時代には100音はあったと推定されているから、奈良時代のころの万葉の歌はもとずっと音楽的に美しく歌われていたのだ」

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