日本書紀の文章から述作者を割り出す 一
祐司は、田沼の言葉が終わるのを待っていたように話だした。
「それじゃあ、いよいよ中公新書から出ている森博達さんの『日本書紀の謎を解く・述作者はだれか』という著作についての話に入りますよ。前にも言ったと思いますが、この方は1999年現在京都産業大学の教授で大阪外語大の中国語学科を卒業なさっている1949年(昭和24年)生まれの方です。著者は後書きに、『私はこの本を書くために生まれてきた。』と言っている著作です。僕が読んだところでも著者が、それだけの事を言うに足る研究だと思います。少し長くなりますが、この本の紹介をさせていただきますね」
「ほう、森教授がそこまで言うのは自信作ということなんだね」
「そうです。・・・これから僕が言うことは、森氏の受け売りですからそのつもりでよろしく。・・・日本書紀は古事記が全文漢字ながら、和文であるのにくらべ、純正な漢文であるということですね。日本書紀がおおむね純正の漢文であるがゆえ、相当後まで書紀の文章研究は進まなかったのです。・・・漢文を分析して、その漢文の成立時期を調べるようなことは清朝(1636年成立)において中国語学が相当な発展を見ることによって始めてできるようになったことなのです。それで日本でも江戸時代のころは当然ながら日本書紀の分析は不可能だったのです。それもありますが明治に入ってからは神書である日本書紀を分析するなどというのは天皇制の下、おそれ多い事だったという事情もあり、研究が進みませんでした。しかし、そうした状況を恐れず、書紀を合理的に分析したのが早大教授の津田左右吉(1873年ー1961年)という人なのです。津田は応神天皇以前は史実に疑いがあること、神話は天皇の統治を正当化するために作られたこと、応神以降も家系記事を除いた部分に捏造が多いことを研究として公然と発表しました。この結果、津田氏の『神代史の研究』(1924年)という著書は1940年に発売禁止になり、2年後には、ついに『皇室の尊厳を冒瀆する文書を著作し・・・畏くも神武天皇より仲哀天皇に至る御歴代天皇の御存在に付疑義を抱かしむるのおそれある講説を敢えてし奉り、(後略)』と有罪の判決を下されてしまいます。津田のこの合理精神は戦後開花し歴史学は、中国、韓国の歴史書や考古学などの研究も取り入れて、多様に発展することになるのですが、その反面、地味な文献の言葉使いを研究するような文献史学は下火となってしまいました。
こうした状況にありましたが、1929年に漢文学者岡田正之が『近江奈良朝の漢文学』で語句の偏在に注目した、書紀の研究を遺稿として残しました。つまり次のような内容です」