出雲の国譲り 古事記と書紀の記事の違い 六
「古事記の出雲の国の条を読んでいくと、僕はある不思議な感情に捕らえられるんだ。それはね、原文を読んでみれば解るよ!いいかい、こうだよ。・・・スサノオの子孫、オオクニヌシの神は多くの妻を持ち、従ってまた多くの子を持った。(オオクニヌシには80人の兄弟がいた)宗像の奧津宮にいる神、タキリビメノミコトを妻として産ませた子はアヂスキタカヒコネノカミ、妹のタカヒメノミコト。カムヤタテヒメノミトを妻として産ませた子は事を知る神の意味のコトシロヌシノカミ。トリミミノカミを妻として産んだ子はトリナルミノカミ。ヒナテリヌカタビチヲイコチニノカミを妻として産ませた子はクニオシトミノカミ・・・こういう風に、このあと七人の妻と、それぞれの子供を記事は列挙する。・・・オオクニヌシ以前のスサノオからの歴史を振り返れば・・・高天原からのスサノオの追放ーヤマタノオロチ退治ー出雲建国のためにオロチ退治によって助けたクシナダ姫と結婚し宮殿を建てる場所を探す。(ここで、いやしくも詩人の名を頂く僕としては、日本最古の詩・・・詩という言葉は中国語であって、日本では古来、歌と呼んでいるものなのだが明治時代に歌の作者を「詩人」と呼ぶようになったのだね・・・が、古事記のこの条に現れるのを見逃すわけにはいかないのだ。宮殿を建てようと思ったところは多くの雲が湧く場所であったからスサノオは次のような歌を作った)
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
この歌は古風でなんだか意味不明だけれど、僕なりの解釈をするとこんな風になるね。
出雲の幾重にも多くの雲が沸き立っている所に、妻を置く場所のために 幾重もの
幾重もの垣をめぐらせて宮殿を造った ああ雲よ ああ宮殿よ ああ雲よ ああ宮殿よ
ひどく単純な歌だけど、五・七・五・七・七になっていて、和歌の形になっているし、国を造る感動が 溢れている良い歌だね!
ここに出雲王朝は成立して、クシナダ姫との子。ヤシマジヌミの神の誕生を始めとする多くの妻と子孫の来歴が語られる。つまりこうだ。少しくどいけど出雲王朝の繁栄を語るために列挙するよ。・・・そこでクシナダ姫を寝所に招いて共に寝た。そのことがあって生まれた神はヤシマジヌミノカミ。カムオホイチヒメを妻として生んだ神はオホトシノカミ、ウカノミタマノカミ。この三人の子のうち兄のヤシマジヌミノの神がコノハナチル姫を妻として生んだ子はフカフチノミヅヤレハナの神。この神がアメノツドエチネの神を妻として生んだ子はオミヅヌノカミ。この神がフテミミの神を妻として生ませた子はアメノフユキヌノカミ。この神がサシクニワカ姫を妻として生んだ子は大国主の神。このあとスサノオの神はかねてからの望みの通り常夜の国へと行かれた。・・・そうして、次のように話が繋がるのだね。
ー大国主が因幡の白ウサギを助ける話ー大国主が八十人の兄から殺されそうになる話ーオオクニヌシがスサノオの娘を黄泉の国まで行って、様々な試練の末に貰い受ける話ーヌナカヒメを貰うにあたっての長々とした物語は、実に出雲王朝史の趣があるのだな。日本書紀ではこれらの事は実に簡略にしか書かれていない。
大国主による出雲王朝隆盛の時、出雲の始祖のスサノオの姉、アマテラスの子孫である高天原勢力は出雲に使いを寄こして出雲王朝の領土を狙う訳なのだ。しかし、これは出雲国の懐柔もあって失敗を重ねる。高天原はそうした末に、これはあたかも、繁栄する地球文明を狙う宇宙人といった趣があるのだが出雲侵略に成功するのだ。
・・・僕には、ここまでの古事記は大和王朝の歴史ではなく、出雲王朝の歴史を描いてるとしか思えないのだ。というのはね、自分の社史にライバルの会社の来歴を長々と語り、いかにそれに打ち勝ったかというようには書かなとい思うからだ。だからこの部分は出雲王朝史の引き写しだと思う。その点で「古事記」という「社史」は、「社史」として第一の問題があったのだね。それと、仁徳天皇(古事記の記事の干支から推測すれば西暦427年崩となっているが、不詳というのが本当のところだ)のあとの古事記の記事は、天皇の系譜が推古天皇まで書いてあるのみで、いわば当時(720年)の歴史書の任に耐えない内容だったというのも、「社史」として、不十分だったのだね。
だから推測するに古事記は主として「出雲王朝史」と大和国の古記を合成してつくりあげられた書で、古くは「大和国史」として通用したが、西暦700年ごろには、「現代史」として通用しなくなってしまったのではないかと僕は思うのだよ」
「そうか、なるほどなあ!」と祐司はうなった。