出雲の国譲り 古事記と書紀の記事の違い 五
『悪い神々は、時期到来と言うばかりに騒ぎはじめ、その声は五月の蠅がそこら中に沸き立つようにあたりに満ち、あらゆる禍という禍は一時にわき起こった。この大変な出来事に八百万の神々は天安川の河原に自然に集まってきた。それで神々は当然のごとく合議を持たれた。
合議がまとまった。まず神々は長鳴き鶏を多く集めてきて闇夜にいっせいに鳴かせた。河原にある固い岩を取り、天金山にある鉄を取り、鍛を仕事とするアマツマウラを呼び寄せて矛を作らせた。次に鏡作りが仕事であるイシコリドメに鏡を作らせた。次に玉造が仕事であるタマノヤノミコトに五百個の玉を繋げた玉飾りを作らせた。次にアメノコヤネノミコトとフトタマノミコトを呼んで天の香具山に住む牡鹿の肩の骨を、丸く打ち抜きさせ、火で焼いて、主として賢いオモイカネの神の今度の対策の吉凶を占わさせた。その結果は良しと出たので、天の香具山に生える榊の木を根こそぎ掘り起こして、その上の枝には五百個の玉を飾り、その中の枝には鏡を飾り、下の枝には木綿で作った白い幣(神官がお清めの時に手に持っているはたきのようなもの)と青い麻の幣を垂らした。フトタマノミコトはこれを両手に持ち、アメノコヤネノミコは祝詞(神に捧げる言葉)を奏上した。力持ちのアメノタジカラオの神が岩屋戸の影に、こっそり隠れた所で、アメノウズメのミコトは踊り出した・・・』ここから、例のセクシーなアメノウズメが足で音を轟かすサンバのような裸ダンスが始まる訳なんだ。祐司君、君はこの条の古事記と書記の表現の違いをどう思うかな?」
「古事記の記事の方が生き生きとしていますね。それに比べて日本書紀の記事はおもしろみに欠けている上に神々を、強制的に臣下の祖に割り当てているように思います」
「うん、そうだね。沙也香さんはどう思う」
「そうね・・・古事記の話が原型で書紀の話がそれを大和王朝の都合の良いように変えて作られているように思えます」
「そうだね、古事記を読むかぎりではこの条は大和の国にかかわりのない、他国の国の出来事に思える。日本書紀ではこの条に登場する神々を大和国の臣下の祖としているが、良く考えると、この条は出雲の国が大和国の祖に国譲りするまでの物語の最中にあるのだ。だから、このあたりは「出雲王朝史」と言って良いのかと思う。それを裏付けるように、アマテラスが岩屋に閉じこもってしまった時に永遠の夜に閉ざされるのは天の高天原と地の豊芦原水穂の国なんだ、水穂の国とは、出雲の国のことで大和国ではないのだね。この話にはまだ大和国が登場しないのだ。日本書紀が、ここらあたりの話を極端に、はしょるのは、速く出雲の国譲りまで話を進めて、大和建国史に入りたいからだと深読みするのは僕だけだろうか。だから思うね、古事記の原本は失われた出雲王朝史なのではないかと。ひょっとすると、ヤマトタケルも神武も出雲王朝史の登場人物の可能性もあるね」