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日本書紀私記とは何か? 三

「続日本紀に目を通しても太安麻呂は日本書紀編纂に関与していないとしか読めない。しかし太安麻呂と日本書紀の関係は、日本書紀私記などに見いだすことができるんだ。・・・それは、日本書紀私記を検証した後、示そうと思う。・・・宮廷内の日本書紀の講義の行事(これは数年に及ぶこともあったというね)を記録したものが、日本書紀私記であることは前にも言った通りだ。養老四年(720年)にできあがった日本書紀の講議は養老五年(721年)・弘仁三年(812年)・承和十年(843年)・元慶二年(878年)・延喜四年(904年)・承平六年(936年)・康保二年(965年)の七回開催されたらしい。太安麻呂と関係がある講義は、書紀が完成した翌年に開かれた、養老四年の講義だ。他の講義は、開催されたことが「続日本紀」に、記載されているんだが、この養老四年の講義は全く記録がないのだ。

 いつから、始まったのかは不明だが、少なくとも元慶二年(878年)のころからは、終了後に竟宴きょうえん(宴会)が催され、書記に登場する神や人を題として歌が詠まれ『日本紀竟宴和歌』としてまとめられているんだが、この和歌集に『養老五年始講』という部があり、『博□□四位下大江朝臣安麻呂』の名が見える。この名は『博士従四位太朝臣安麻呂』と考えられる。しかし、それ以上の詳しいことは記されていないのだ。『釈日本紀しゃくにほんぎ(日本書紀の解釈書)』にも『養老日本私記』などと書かれていることから、太安麻呂が、講師をつとめて、講義を行った可能性が高いと考えられるね。これは91年後に行われた弘仁時の講義の担当博士が太氏の『従五位多朝臣人長(おおのあそんひとなが)』であることが弘仁私記に書かれていることからも、日本書紀と太氏の関わりの深さが表れているとみるのだが、どうだろう」

 

 祐司が口をはさんだ。「そうですか、日本書紀成立の翌年に博士として講義をしているならやはり太安麻呂はやはり日本書紀の作成の立役者と言うところですかね」

「きっと、そうだね」

「そうすると、太安麻呂がなぜ、編纂者として続日本紀に名を書かれていないか不思議ですね」

「うん、不思議だね」




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