日本書紀私記とは何か? 二
「日本書紀私記について考える前に、舎人親王や太安麻呂以前の書紀成立の背景を押さえておかなければならないと思う。日本書紀の推古天皇28年(620年)の条に『この年皇太子厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子大臣は協議して天皇記と国記と臣の連・伴造・国造・百八十の下臣と公民の事を記した本記を録す』とある。この歴史書は蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされる皇極天皇四年(645年)の書紀の条に『蘇我臣蝦夷は誅されるとして、ことごとくの天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺(韓国からの船によってもたらされる贈り物、事情などを記す文書官)は急いで、焼かれる国記を取り出して中大兄皇子(後の天智天皇)に提出した』という記事からみると、保存されたようだね。この歴史書の名前を何と云ったか解らないが、古事記の記事が皇極天皇の二代前の推古天皇の条(628年)の『この天皇の陵は、初めに大野の岡にあったのを、のちに科長(大阪)の大稜に移した』で、終わっているのは、645年に滅亡した、蘇我氏の手になる歴史書と妙に整合するではないか。・・・でね、極論をいえば、この歴史書の名前は「古事記」であったかもしれないね。もちろん疑わしい序文を除いた部分なんだが」
祐司と沙也香は、田沼のその推論の鋭さに「ホウ」という顔をした。」
「しかし、ここで留意しなければならないのは天武天皇(在位673年~686年)の時に古事記序文においても、日本書紀においても、歴史書編纂を意図したことが、記載されていることなんだ。古事記においては太安麻呂に命じるのだが、書紀においては太安麻呂の名はなく、『川島皇子・忍壁皇子らに命じて帝紀及び上古の諸事を記し定められた。中臣大島と平群子首は、自ら筆をとって記録した』とあるのだ」
「まあ、これで、古事記・日本書紀・続日本紀から読み取れる、書紀成立に関する情報は尽きていると思う。それを補うために、いよいよ日本書紀私記を検証しよう。まず『日本書紀私記』とは何かということだね。養老四年(720年)に完成した日本書紀は、その後、宮廷内で、理解のための読書会が開かれるようになる。書紀に詳しい教師が、一字一字読みながら、解釈していくというやり方で書紀の内容を把握しようというものだ。この講議の内容を記録したものが、『日本書紀私記』なのだね。この書のなかに、太安麻呂に関する重大な記事が出てくるのだ」