太安麻呂はどんな人? 三
「さて太安万侶が氏長になったという716年からの記事のあと、記事がないのだが、のちに、日本書紀を撰上する舎人親王の記事が719年に見える。ちょっとこれは不思議な記事で、家来を36人、年貢をとれる戸を800戸にするから、幼少の皇太子(のちの聖武天皇)を良く守るようにとの詔を出しているのだ、一体これは何だろうな。天皇が舎人親王の権力の増大を恐れているようにとれるね。・・・そうして、養老四年(720年)五月二十一日の条に『これより先に一品の舎人親王は勅を受けて、日本紀の編纂にあたっていたが、このほど、それが完成し記事30巻、系図一巻を奏上した』という文章が現れるのだ。そのあと八月三日の条に、右大臣正二位の藤原不比等(当時強権を誇っていた)が亡くなるという記事がある。元正天皇は、不比等の死をひどく悲しんだようだね。しかし八月四日には早々と、天皇は舎人親王を太政官相当という臨時職を与えて、不比等に変わる、筆頭の役につけている。これから思うに、先の舎人親王への特別の報酬は、不比等が病に臥して、死期が間近い事を知った、天皇の対処だったようだね。養老五年(721年)正月に天皇は文化興隆を目指して、学業を修める者に褒賞を与えているのだが、その中に『従六位・太羊甲許母』の名が見える。位と言い、名前と言い、恐らく太氏の若者ではないだろうか。養老七年(723年)7月7日の条に『民部卿(戸籍筆記などの文書官の長)従四位太朝臣安麻呂が卒した』の記事が見えるね。これは、前にも言ったが、昭和54年に火葬の墓とこの記事に整合する年号が書かれた墓誌が発見されているんだ。これによって、日本書紀の記事が、捏造でなくて、かなり詳しい叙述であることが見直されたらしい。そして神亀元年(724年)天皇は聖武天皇に譲位するんだ・・・まあ、以上が太安麻呂に関する記事の全てだ。続日本記には日本書紀についての記事はきわめて少ないことが解るね。これでは、日本書紀と太安麻呂の関係がつかめないどころか、書記の中心執筆者が誰なのかも特定できないのだよ。・・・この考察をさらに深めるためには、宮廷で行われた、日本書紀の講義を記録した日本書紀私記をさぐるよりないのだ。したがって、この後は祐司君の持ってきた、日本書紀私記解題が役にたってくるんだ」