太安麻呂はどんな人? 二
「ここで、さらに僕がだめでないことを強調しなくては、いけませんね。元正天皇が美濃不破の行宮(仮の宮)に、数日間滞在した時、山に美しい泉を見つけました。そして泉で手や顔を洗ったところ肌がすべすべしたというので、元号を改め養老元年(717年)としました。・・・この時、女帝の天皇は37才、美女と伝わっておりますが、さすがの美女も肌の衰えを感じ始めたときに、この効果抜群の泉の発見はよほど嬉しかったんでしょうね。なんか、ほほえましいエピソードですね。・・・これによってその吉兆を喜び、80才以上の宮人に位を一階くわえるのですが、位上げによって五位以上になるものは除外したのです。何故かというと五位よりいわゆる「貴族」と呼ばれる人々に列する事に成っていたからなのです。また五位になれば、位階のみによって碌があたえられるようになるからなのです。これも女帝らしいけちくささを感じないでもありませんが、ほほえましい一面と言っておきましょう。さて、思い出して欲しいのは704年、太安麻呂は始めて正六位から従五位下という『貴族』と呼ばれる位に達した事です。出生は不明ですが、723年に葬られたという墓碑銘のある墓が近年発見されていますので、当時の寿命から推測しますと60才で亡くなったとすると、貴族に列したのは、なんと当時としては老齢である41才という年であったとおもわれます。もし、亡くなった年が70才であったなら51才であったということです。報われない人生に晩年になって光が差してきたという感じなんです。しかも、その七年後には、さらに、従五位上、正五位下、という位階を二段階も飛び越して正五位上についてしまっています。この背景には、きっと日本書紀編纂の功労が影響しているのではないのでしょうか」
田沼は、この言葉を聞いて、感心したように祐司を見て言った。
「ほう、さすがの助教授。酒浸りの生活ばかりでないことが今、やっと解ったぞ」
「どうだ、酔いどれ詩人まいったか」
「それを言うなら、せめて徘徊詩人と言ってって欲しいな、アル中とまちがえられるからな。ハハハ。今回は僕の負けだ!その事はすごい良い発見だね。このめざましい昇進が、日本書紀編纂によるものかどうかは、まだ確定できないが、何かの原因がありそうなことは間違いないね」