太安麻呂はどんな人? 一
祐司が、二冊の本を田沼の病室に持ってきてから、三日目にふたたび祐司はやって来た。
「先生どうでした?」
「祐二君に本を渡されてから、急いで読んでみたよ。いろいろ問題があるね。これから勝手な推測を述べるから、なにか疑問点点があったら、口を挟んで良いよ」
「はい。僕も資料をコピーしたりしてだいぶ読み込んできました」
「うむ、それは見上げた心だ。毎日忘年会でそのような閑がないと思っていたよ」
「僕はセンセみたいな飲んべえではありません!見かけよりまじめなんです。そりゃあ、鉄道模型やジオラマといった趣味にだいぶ時間を割いていますが、生活は質素なものなんです」
「僕の若い頃はね・・・まあ、いいか・・・はい、はい勉強、勉強」と、田沼はニヤリと笑った。
「太安万侶がどのような人であったのかは、古事記の自己紹介的な序文以外には日本書紀の後の国史書である続日本紀にいくらかの記事があるだけだ。まず文武天皇の在位中の慶雲元年(704年)の条に、次のように書かれている。『正六位下の太朝臣安麻侶に五位下を授けた』。この記事は、他の十五人ほどの人に従五位下を授けたという記事と一緒に特別視されないで、多くの人の一人として書かれている。和銅四年(711年)には、多くの貴族達とともに『正五位下太朝臣安麻呂に正五位上を授けた』とある。元明天皇の在位期である霊亀元年(715年)正月には、やはり多くの貴族達と共に昇進していて、『正五位上の太朝臣安麻侶に従四位下を授けた』とある。元正天皇の在位期である霊亀二年(716年)九月二十三日の条には『従四位下の太朝臣安麻呂を氏長に任じた』とある。この氏長というのは何かな、祐司君?」
「大化の改新は朝廷制度の整備を伴っていました。一つの王家が永く続くとありがちなことですが、分家などによって皇子、貴族家が非常に増大して、多くの官位を増やさねばならなくなったのですが・・・ということは、朝廷費用の年ごとの経費の増大を意味するのですが、このままでは早晩、国庫が不足してしまうことは目に見えています。それで、氏を定めて、官吏の増大を防いだわけですね。男子相続制を根として、氏の筆頭をさだめて、一定の家からの官吏登用の増大を押さえれば、各家は、内部で話し合い互助するでしょうから、朝廷全体としては人件費が抑えられるということですね。ここで、あらためて、太安麻呂が氏長に任命されたことが続日本紀に特記されているのは、続日本紀編纂にいかに太氏が深くかかわっていたかという事を示す証拠ではないでしょうか」
「なるほど、そういう事なんだね。さすがに、国文科の先生、目の付け所がちがうね」
「先生の弟子とはいえ、一応安給料ながら助教授ですからね、ちょっと良いとこも見せないと、出版する本でも、僕がどうしようもない助手みたいに扱われてしまいそうですからね」
「あっはっは。頼りない安給料の助教授として絶対書くよ。きめた!」
祐司は笑いながら、田沼をにらんだ。