二人研究の一応の結論
「古事記が日本書紀にとって一書にすぎなかったとすると、日本書紀中に、古事記に関する記事がなくなるのは当然だね。さてどうやら、古事記というものが、どのようなものであったか、今までの検証でだいぶはっきりして来たようだと思わないか?」
「そうですね、今まで検証したことを総合するといろんな事が見えてきますね」
「それじゃ、まとめてみようか。・・・古事記の文は、日本に文字のない時代があった事を仮名用漢字によって香らせているね。そうした所は日本書紀には見られないな。また、越の国の表記が、書紀にあって古事記にはないとか、国が生まれた順番が古事記では筑紫の方が近畿より先であるとか、古事記の表現が、近代的なモラルに捕らわれていないおおらかさがあるとかを総合すると、古事記序で太安万侶が書いたと自称する、日本書紀よりおよそ10年早いという年紀は、嘘という結論が出せそうだね。それにともなって、古事記序文と本文のあいだに、矛盾が発生する。つまり序文の最後に書かれている期日と本文の期日が一致しないと言うことだ。この序が太安万侶によって本当に書かれたならば、太安万侶は嘘を書いていることになるね。そこから推測できることは、古事記の序文と本文は別に書かれて、つなぎ合わされたと言うことだ。このような見えすいた嘘は当時の八世紀初頭の高位な官人であった太安万侶のできることではなかったと思われるね。太安万侶の不在説まであるが、それは続日本紀の中に官位授与の記事があるし、最近では墓が発見されて日付入り墓誌まで出てきたのでそれは否定できる。このことについての事実はつまりこうだったと思える。・・・西暦にして690年の頃、まず、誰かの手によって作られた古事記が存在した。それと、多くの史書が参考にされて日本書紀が長い歳月をかけて編纂された。書紀編纂後、参考になった一書群は抹消・焼却された。後年、消去をまぬがれた一書である古事記原本に、太安万侶名で他の者が序文を書いて、密かに流布させた。それは「禁書」の制がゆるんだ、そうとう後世の、ひょっとすると1200年の鎌倉時代の事であったかもしれないね」
「太安万侶は、日本書紀完成のあとすぐ、宮中で日本書紀についての最初の講議を行ったと、書紀講議記録である『日本紀私記』に書かれているんですよ」
「ほう、それは知らなかった。それは興味ある事実だね。その『日本紀私記』を読んでみたいな。用意出来るかな」
「そうですね、買うと高いですけど、たしか大学の図書舘にありますね。次回はそこからですね」