終章
「斉明天皇四年(658年)十一月五日 有間皇子は赤兄の家に行って、高楼に登って謀をした。机がひとりでに壊れた。これが不吉の前兆だと思い、秘密を守ることを誓って中止とし、皇子は帰って眠りについた。この夜中に、赤兄は物部朴井連鮪を遣わして宮を造る工人を率いて皇子の家を囲んだ。そうして早馬を遣わして、その子細を天皇に伝えた。
十一月九日 有間皇子と守君大石・坂合部連薬・塩谷連鯯を捕らえて紀の温泉に送った。
これに皇太子(中大兄皇子)は自ら有間皇子に尋ねた。
「なぜ、謀反しようとするのか?」と。
「天と赤兄のみが知っていることで、私には何のことか解りません」
十一月十一日 丹比小沢連国襲を遣わし藤白坂(和歌山県海南市)において有間皇子を絞首にした。
・・・ま、書紀の記事がどうであれ、どうやら有間皇子は蘇我の赤兄にだまされて、謀反の罪を受けたのだね。赤兄の背後にいるのは、もちろん中大兄皇子だね。・・・続けるよ。
こうした出来事の後、中大兄皇子は、権力を掌握して、一度亡びた百済の救援に全力投球するのだね。
ところで、ここに、不可解な一文が出てくる。
斉明七年六月 伊勢王薨せぬ。
・・・一体、これは何だろう。伊勢王とは何者かを書かず突然こういう記事が出てくる。伊勢王の死については、これに重複する記事がある。
天智七年六月 伊勢王とその弟王と、日を接して薨する。未だ官位をつまびらかにせず
・・・そして、その後に、次の記事が続くのだ。
天智七年七月 栗前王を以て、筑紫の率に拝す。
・・・栗前王は新撰姓氏録(平安期815年成立。古代の豪族の出自を書いた本)によれば橘氏の条に敏達の子の難波皇子の子とある。橘諸兄の祖父で壬申の乱の時、筑紫大率として反天武である近江方、の動員命令を拒否。天武六年に死去とある)。・・・姓氏録にはこうあるが、僕の考えるには、この書の原典は、書紀の記事であることが多いので、あまり正確な書ではないと思う。この記事にも重複する記事がある。
天智八年正月九日 蘇我赤兄をもって筑紫の率に拝す。
・・・どうだね。ここには、改竄の後がクッキリ残ってはいないかな?改竄前の記事は栗前王であったものを、蘇我赤兄とまた書いて、示すのだ。書紀編纂者は恐らくわざと重複させているのではないだろうか?。さて記事から言うと伊勢王ー栗前王は一連の記事だ。だから伊勢王は倭国王と推測される。そうだよ!ここに倭国は書紀執筆者によって、はっきりと姿をしめされているのだ!
・・・僕は、古事記・日本書紀が現存した倭国を歴史上から抹殺したのではないかと考えて追求してきたが、ついにその犯罪の証拠を掴んだわけなんだ。ここに倭国はあったと僕は宣言する!
沙也香は目を丸くして、田沼を見つめた。裕司も声を出さず、感動の思いで、田沼をみつめた。
そして、かすれた声で裕司は言った。
「やりましたね。異種大和、倭国存在論の完成ですね!」
「ス・ゴ・イ!こんなヒントが日本書紀に隠されていたなんて驚きです!」
「今日の日、僕はこの論証が一応の決着を見ると思っていた。それで僕は、とびきりのシャンパンとキャビアを持ってきている。さ、乾杯しよう!」
三人はグラスを掲げて乾杯した。ニコニコしながら田沼は言った。「しかし、この追求の終わりは一応のものだ。僕はこの追求で天智天皇が巨大な謎を秘めていると思うようになった。だから、この話は『天智天皇巨大な謎』の続編を持つことになると思うよ!」
完