表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

248/249

調査の終わり 八

 三人は、さすがに茹だってしまって部屋に戻ってきた。沙也香の、この雪山に囲まれた満天の星の露天風呂で終えるという計画は崩れた。三人は部屋に戻って軽くビールを飲みながら話の続きに入った。


 裕司は言った。「すごいですね!書紀の中に、太安麻呂の祖父とその妹らしき人が登場するのですからね。そうして、事もあろうに、その妹が風前の灯火の百済の王となる、豊璋ほうしょうの妻となると言う話は、すごすぎませんか」

「そうだよ。それが真実なら、太安麻呂は百済とこのことだけでも特別な関係を持った人なんだね。また百済に戻る豊璋王子に、多氏の女が嫁ぐというのは、多氏おうしが、中国語に堪能な百済王族と血縁が深い帰化人だった可能性があるね。古事記も書紀も中国語で記されている。文章に和臭と言う物が見られる条もあるが、太安麻呂が、書紀成立直後に宮廷において、長期間を費やして最初の講読会の博士(研究者)として講義の主催者になっているらしいから、太安麻呂が中国語に堪能だった事は、間違いがない」

 裕次は言った。「何度も言うようですが、太安麻呂が書紀にも、それに続く史書である続日本紀にも、書紀執筆者として一行も書かれていないのは不思議ですね!宮廷における、書紀講義の講義メモが、日本書紀私記と言うものなんですが、そこには、太安麻呂が最初の講義に博士を務めたという記事があるのですからね」

「問題はそこら辺にあるね。そのことについて、書紀や続日本紀は黙している。僕は思うのだ。作成当初はこれらの書に太安麻呂が書紀編纂の重要人物であったことは書かれていたと。しかし、太安麻呂が書紀の中で【大和とは別である倭国の存在を示そうとしている】ということが朝廷に解ってきて、転書の時に太安麻呂の業績は削除されたのだとね。・・・さて、話がそれてきた。元に戻そう。


 これに先立つ斉明天皇四年(658年)十一月三日 有馬皇子ありまのみこ(孝徳天皇皇子。孝徳天皇は皇極天皇=斉明天皇の弟。孝徳天皇は皇極ー孝徳ー斉明の皇統の中に在位した天皇。有間皇子はこの時19才)に、斉明天皇紀の湯御幸にあたって、留守役、蘇我赤兄そがのあかえ(蘇我馬子の孫。娘を天智・天武に入れ、筑紫卒を経て天智十年左大臣となった。壬申の乱に罪を受け、配流)が語って言った。

「斉明天皇の治世には三つの過ちがあります。大きな蔵を建てて民の財を積み集めた事。長い堀を掘って公費を潰えさせた事。舟に石を積んで運び丘にした事です」

 有馬皇子は赤兄が自分に好意を持っていてくれることを喜んで言った。

「わが生涯で始めて兵を用いる時が来た」と。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ