調査の終わり 七
。「こうして時は天智天皇の時代にはいってゆくのだが、この天智天皇の時代は一言でいえば、不思議の一言に尽きるね。天智天皇は斉明天皇亡き後、七年も即位せず、称制という、事実上ナンバー1の立場を続けるのだ。この大和の称制は、中国にもある称制の、王を支える実権者といった者でなく。王が亡くなった空白期を埋める準王といった趣の物なのだね。これは、称制としてはひどくユニークな物なんだ。こうした特異なものが、書紀に現れているところに僕らは注目しなければならない。僕には書紀の書くことは恐らく事実だと思われる。安易な筑紫倭国論を僕はとりたくないから天智天皇、倭国王説などに、こうしたことを、今は安直に結びつけたくはない。しかし、斉明天皇期には筑紫に都を設けた事はどうやら事実のようだから、天智・天武期には、書紀に書かれたよりも何か途方もない事実が隠されているように僕は思う。・・・だから、これは、僕の次のリゾート病院シリーズのテーマにしたい。この事は、今度の研究で極めるには、あまりにも謎が深すぎそのような不思議な事があったと云うことに留めたいね。」
裕司は言った。「天智天皇がすぐ即位せず、代表者みたいな存在だったことは事実だったようだと僕も思います。ここには、先生の云うようにきっとすごい謎が隠されているのでしょうね」
沙也香は言った。「あら、それでは、まだまだ私の仕事は続くんですね。良かった!」
「蘇我氏・天智天皇・天武天皇といった大化改新期には、まだ解明されていない重大な謎が隠されているということだね。・・・ま、僕らはこの謎には立ち寄らず、先に進んで行こう。次の書紀の記事を見て見よう。
天智天皇元年(661年) 八月 前軍の将軍、大花下阿曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後軍の将軍、大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊大山上守君大石らを遣わして百済を救わせた。これによって武器・食糧を送られる。ある本に曰く、この軍の後に続けて、別に大山上狭井連檳榔・小千花秦造多来津を遣わして百済を守らせた。
九月に、皇太子(天智天皇)長津宮(博多)に入られた。衣類冠を百済の王子豊璋に授けられた。又、多臣蒋敷(和州五郡神社の神名帳大略注解に載るところの久安五年多神社注進状には太安麻呂の祖父とする)の妹を妻とした。すなわち檳榔・多来津を遣わして、軍五千余りを率いて、百済本国に守って送らせた。
・・・どうだい。太安麻呂の祖父の妹が百済王子の妻となっていることがここで、記されている。つまりはだよ、太安麻呂が当時の政変の渦中にいたことが明らかだね! 」