調査の終わり 六
「 斉明六年(660年)10月 百済の佐平鬼室福信は佐平の貫智等を遣わして、唐の捕虜百人余りを献上した。これは今の美濃の国の不破・片県二郡にいる唐人である。また救いを乞うとともに、王子豊璋の帰国を乞うた。・・・まあこれから、事は急速に展開するのだね。次に足早に大事なところを抜き出してみよう。
王子豊璋及び妻子と、豊璋の叔父忠勝らを送る。(妻子は多氏の女性とその子とも考えられるね)
斉明七年五月、天皇は朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡)に遷られた。」
裕司は言った。「斉明天皇は皇極天皇が返り咲いたものですね」
「そうだね。蘇我の入鹿の誅殺によって、史上はじめて天皇を譲位したのだ。孝徳天皇を一代おいてふたたび天皇になった。これを斉明天皇というのだ。斉明天皇は有名な天智・天武天皇の生母で、皇極天皇の時は蘇我氏が斉明天皇の時は中大兄皇子(後の天智天皇)が事実上の政権をにぎっていたのだね。だから、この、九州の朝倉の宮というのは事実上は中大兄皇子がやったことなんだ。九州に都を持ってきたというのは、ずいぶんすごいことだね。と、いうのは何千人という貴族・官吏・下司がともに九州に移ってきているのだからね。何の為にと言えば、表向きは、三韓情勢に対する対処だが、本当は筑紫併合の意図があったのではないかな。後世の江戸時代においても、江戸幕府は九州をよく掌握仕切れておらず、薩摩藩は一種の他国のようであったから、ましてやこの時代には、筑紫は大和王権にとっては統治しがたい国であったことが想像されるね」
沙也香は言った。「そうなんですか。九州に都を移したという事を私は見逃していました。これはすごいことですね!」
「このことによって、中大兄皇子は恐らく大和王家統治の最終的完成を目指していたということかな。蘇我氏の長らくの専横は大和政権をあたかも一地方の王家のような有様にしていたと考えられる。一方で海外の唐が韓地はおろか日本をも襲いかねない状況にある。筑紫が未だ倭国の夢を見ている。中大兄皇子と中臣鎌足の危機感は相当なものだったんじゃないかな。云うならば幕末という感じかな。そうした折も折り斉明天皇が亡くなり、百済から捕虜百人がもたらされる。」