調査の終わり 五
「書紀はさらに書いている。その二ヶ月後だね。
斉明六年(660年)九月五日。百済は達率(百済官位十六の二位)(名をもらせり)と僧、覚従らを来朝させて言った。(ある本によれば、逃げてきて禍を伝えたとのだと言う)
『今年の七月に、新羅は自分の力に自信をもって驕り百済に親しまず唐の人間を呼び寄せ百済を覆しました。義慈王(その王子の一人、善光は百済王の氏を貰い日本の貴族として存続した)と臣とはことごとく捕虜とされ残る者がいなくなりました』(ある本に言う。今年の七月十日唐の蘇定方は船軍を率いて尾資の港(百済王城の西南、錦江の河口)に闘った。新羅武烈王は兵馬を率いて怒受利山(王城の東)に闘った。百済の王城をはさんで闘うこと三日、我が王城(泗沘やがて南方の熊津に移った)を破った。このときに西部の恩率(百済官位十六位の二)鬼室福信(百済の王族。百済義慈王の父、武王の甥。勇敢であったが残虐で恐れられていた。百済義慈王が捕らえられて唐の都長安に送られた後、百済復興を目指して日本に人質となっていた義慈王の王子、豊璋を百済復興の盟主として擁立したが、反目、天智二年(663年)六月に殺害された。)は怒り発憤して任射岐山に拠点を構えた。
・・・余談だが豊璋は、日本にいるとき太安麻呂の祖である多氏から妻を貰っているのだね。・・・
達卒余自進(百済王族。天智二年(663年)に日本に渡り、天智八年に近江に居を構えた。天智十年に位階の大錦下を授けられた。高野氏は、その子孫)は、中部の久麻怒利城(錦江沿岸の城か)に拠点を構えた。それぞれ一所に設営して敗走によって散らばってしまた兵をふたたび集めた。兵器は先の戦いで失われた。故に棒をもって闘った。新羅の兵はかくして敗れた。百済は新羅の兵を奪った。百済軍はたちまち勢力を取り戻した。
唐はそれを見て侵入してこなかった。
鬼室福信らはついに、百済人を求め集めて、共に王城を守った。百済の人々は尊んで言った。福信のみが、既に亡びた国を興したと。 」