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調査の終わり 四

 書紀は斉明六年(660年)七月の条に 高句麗の僧、道顕どうけん(帰化人)の手になる日本世記にほんせいき(書紀編纂史料の一つ)のこの月に次の記事があることを書いている。

 

 春秋智しゅんじゅうち(新羅武烈王)は唐の大将軍蘇定方(そていほう)の手を借りて百済を挟み撃ちして亡ぼした。百済は自らほろんだのだともいう。というのは百済義慈王(ぎじおう)の妻は妖女にして無道で、ほしいままに政治を我が物とし、良き臣下を誅殺したからである。


 新羅の春秋智は高句麗の高官、蓋金こうきんに百済討伐の援軍を求めたが、その願いはかなわず、故に唐に仕えて、国の衣服を捨てて唐の衣服を身につけて媚びを売り百済を亡ぼす意志を通したとある。


 また、書紀は伊吉連博徳書いきのむらじはかとこしょ(書紀編纂の史料の一つ。博徳は斉明五年~七年(659年~661年)第四次遣唐使に随行し、帰国した。天智三年(664年)に唐使を太宰府で応対し天智六年(667年)には小山下の位で唐使を唐に送り翌年帰国している。以後天智・天武期に彼の記事はないが、持統元年(687年)、大津皇子の謀反に連座し罪せられたが、持統九年(695年)にようやく許されたようで新羅への使いを果たしている。文武四年(700年)に従五位下に昇進、大宝律令編纂者に任命されている)を引用している。


 博徳書 斉明六年(660年) 百済がすでに亡んだ後に、九月十二日に唐に留められていた日本の客人に帰国が許された。十九日唐の西都、長安を発った。十月十六日に唐の東都、洛陽まで戻り、始めて私(博徳)は阿利麻ありま(東漢直阿利麻。白雉五年・654年第三回遣唐使。二船のうちの難破した一船に乗っていたが阿利麻ら五人が延命した)ら五人と、再会した。十一月一日 にわかに百済の王・太子(りゅう)ら、諸王子十三人、大佐平(百済官位六位)宅千福たくせんぷく以下三十七人、合わせて五十人余りを唐朝に奉った。天子は則天門の楼上から百済の虜に臨み、これを釈放した。十九日ねぎらいの宴が開かれ二十四日洛陽を出立した。


 ・・・まるで、マルコ・ポーロの東方見聞録のような克明な、叙情あふれたレポートだね。」


 裕司は言った。「満天の星の下、ぞっとするような古代のロマン溢れる話で、いいですね!」

 沙也香も言った。「そうですか、百済の最後に、日本の外交官が立ち会っているわけですね!ス・ゴ・イ!」

 

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