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調査の終わり 二

「こうした疑念をさらに濃厚にするのは、隋書倭国伝に次のような記事があるからだ。


 開皇二十年(隋の高祖文帝の年号。西暦600年、推古天皇八年にあたる) 倭王あり。姓は阿毎あめ、字は多利思比孤、阿輩雞弥おおきみと号す。使いを遣わして都の長安に詣でる。帝は司をしてその風俗を尋ねさせた。使者は言う。『倭王は天をもって兄とし、日をもって弟とする。天がいまだ明けない時に出て政を聴き、跏趺かふして座し(アグラであるが、ももに他の足を重ねる。一種の正座。座禅僧の座り方)、日が出ればつとめを止めて弟に委ねようと言う』と。

 高祖はこれを聞いて『これはずいぶん理の通らないおかしな事だ』と言って、教えてこれを改めさせた。王の妻を雉弥きみと号した。後宮に女が六、七百人いる。城郭はない。


 この記事は書紀にある、第一回の遣隋使の七年前の出来事を書いているのだ。書紀にはこれに関連する記事はまったく見あたらないのだね。隋書のこの記事が本当なら、大和王権は、邪馬台国を除けば日本最初とも言うべき中国への遣使を忘れはてていると言うべきだね。

 しかし、書紀執筆本体である大和王権はこの史実を知らなかったというのが、本当なのかも知れないな。僕はこの最初の遣隋使の記事に、ある一つのメッセージを読み取るのだ。


 それはね、この隋書の端々《はしばし》に邪馬台国と筑紫を感じると言うことなんだ。その一つは、邪馬台国のように王と準王と言った二人による支配制度だといことだ。それに巨大な後宮をつくっていること。また、たいした都というものを持たないというのは明日香と異なることだね。大和政権は、すでにそれなりの都を築いているようだ。また、明日香では天皇は椅子に腰掛けて謁見したように思えるのに、・・・再現された平城京の大極殿には王座に椅子が置かれているのだね・・・なのにここではあぐらをかいて謁見していることだ。また、大皇すめらみこととも呼ばず【おおきみ】と呼ばせているところにも明日香の雰囲気と違うところがあるようだ。

 つまり全体として、隋書が描くところには、土俗的で原始的な政権がたちあがってくるのだね!これは明らかに大和政権とは異なる国を表していると言わざるを得ないね。中でも特筆すべきは、書紀にこの記事が記載されてないことだよ」

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