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調査の終わり

 沙也香はホテル指定のタオル生地の湯浴み着を着けて混浴風呂に現れた。男どもは湯船に浸かって、沙也香の登場を待っていたのだ。沙也香は広い露天風呂に二人を見つけるとニッコリ微笑んだ。

「我らがミューズ登場だね」と田沼は言った。

「湯浴み着でもなまめかしいですね!」

「ちょっと、あんた達、その視線はなんですか」

「いえ、別に怪しい者ではございません。お代官様。私らは単なる歴史愛好家に過ぎねえでございますだ」

「いや、怪しい、その目が血走っておるぞ。やましい心があるのであろう」

「あはは!女、遠山の金さんだね。肩が丸見えだものね。所でお代官様、証の桜吹雪の入れ墨が見えませんな」

「下司な奴じゃ。入れ墨はもっと下じゃ。見えるわけがあるまい。なんなら脱いで見せようか?」

「あ、いやけっこうでございます。そんな事されたら息子の奴が・・・不良になってしまいますだで」

「先生!おふざけはこのくらいにしてくださいよ。いよいよ最後の締めにいきましょうよ!」と、祐司は言う。

 沙也香は湯船に入ってきた。


「あは!ついはしゃいでしまった!よし、それではいよいよラストシーンだ。・・・書紀には推古の時代、えーと600年に入って、日本は新羅に一万人出兵させたという記事があって、五つの城を奪ったと言うのだね。日本は新羅の朝貢を条件に撤退したとあるのだ。しかしこれはどうも史実とは思えないな。

 新羅が相変わらず朝貢もしないので二年後には兵二万五千を率いて、久米皇子を将軍として出兵させるのだが、久米皇子は死んでしまう。その替わりに将軍になった兄の当摩たぎま皇子も、妻が死んで、ついに新羅征伐は中止となってしまう。まあ、これはずいぶん情けない話だね。二万五千の大軍勢が大将の本妻が死んだことで取りやめとはずいぶんトホホな話ではないか。この記事はどうも創作臭いね。


 ・・・そうして、この後の対外政策は遣隋使・遣唐使に移って行くようだ。この遣隋使なんだけどね不思議なことがある。書紀に記載されている最初の小野妹子の遣隋使は推古十五年(607年)なんだけど、これについては隋書倭国伝の大業三年(607年)に・・・」

 驚いた事に田沼は露天風呂に大きな手帳を持ち込んでいて、それを開いた。「ああ、これだ、これだ。えーと、こういう記事がある。


 大業三年、其の王、多利思比孤たりしひこは使いを遣わした。使者曰わく、「海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。ゆえに遣わして朝杯させる。それとともに僧数十人を遣わして仏法を学ばせる」

また国書に曰わく「日出ずるところの天子、日を没する処の天子に書をいたす。つつがなしや云々」 帝これを見て機嫌をそこね外交の司に曰わく。「蛮書は大変失礼だ。以降は、朕に伝送するを要せぬぞ」


 ここでは、書紀の記事にある大和王家の遣隋使と隋書にある倭国の遣隋使の年次が正確に一致しているね。しかし年次はあっているけれど、倭国の王が一方が推古帝で一方が多利思比孤で同一人物とはとても思えないのだ。ここに倭国とあるのは本当に大和国のことだろうか。そうでは無いかも知れないという疑念が興るのだ」

 

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