露天風呂そして満天の星 十
「いよいよ任那が滅亡するのが欽明二十三年一月(書紀引用の一本によると欽明二十一年)だから、筑紫の軍団は、その六年前に、大和軍として出兵しているのだね。
任那が亡ぼされたという二十三年七月には大和王家は紀男麻呂を将軍として多唎(韓国南西海岸部)から新羅に向けて進軍させた。副将の河辺臣を居曾山(不詳)から進軍させた。そうして新羅が任那を攻め落としたことの責任を取らせようとした.軍は任那に到り、薦集部首登弭を百済に遣わして、いくさの計画を打ち合わさせた。
ところが登弭は途中、妻の家に寄った。この時、機密の文書と弓を路に落とした。これによって新羅は事細かく大和軍の計略を知ることとなった。新羅はにわかに大軍を興したが、次々に敗退したようにみせかけた。そうして新羅は大和軍に対して降参を告げた。紀男麻呂は、軍を百済に凱旋させた。
軍中で宣げて言った。「勝利しても破れた時の事を忘れずにいよというのは古来からの良き教訓である。いま居るところは狼と犬が交接するような所である。これを軽々と忘れて、後の難事を招いてはならない。また平安な時においても刀剣を身からはなしてはなるまい」と。
兵士は、みな心を男麻呂に委ね、つき従った。河辺の臣は、独軍を進め転戦し、向かうところは皆、破った。新羅軍は白旗を掲げて武器を投げ捨てて投降した。河辺臣は兵道を知らぬ者で、自軍に白旗を掲げさせて兵を進めた。
新羅の将は言った。「大和の将軍、河辺臣は降参した」と。これにより、新羅は軍をすすめ、大和を迎え撃った。大和の国造、手彦は、救いがたいと知り、軍を捨てて逃げた。これを新羅の闘将が追い、城のはずれで鉾をふりまわし、あい闘った。手彦は駿馬に乗っていて、城の堀を渡って単身逃れた。
新羅の闘将は、城の溝に臨んで、絶叫した。「卑怯者!」と。 」