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露天風呂そして満天の星 九

「書紀は血筋が絶えたからと、継体王を天皇に迎えたと書くが、実際は継体が戦国状態に群雄割拠する近畿圏のトーナメント合戦に勝利したと言うところが実相ではないかな。血筋が旧来の大和王権に繋がっているという継体王の自称などは付け足しで要するに強かったのだね。この後、仁賢天皇が父である手白香姫たひらかひめが母である欽明天皇が立って大和の濃い血筋が戻るまでおよそ九年間(空白期を除くと六年間だね)は、あまり大和王朝に関わりのない血筋が近畿の王となるわけだけど、やはり大和王朝の血筋に戻っていくのだね。

 倭国天皇・太子・王子共に死ぬという記事や、安閑・宣化と欽明の血筋の濃さの違いから【安閑・宣化と欽明に対立】があって、【継体暗殺説】もあるけれど、それは隠すほどの重大な事ではないと、僕は考えるのだ。もしそれが事実であるなら、わざわざ【一書に依れば継体期は二十八年とあるが、ここで二十五年というのは百済本記によっている】などとは書かず、継体期は二十五年で終えて、安閑期なり宣化期を伸ばせば事足りるはずではないだろうか?・・・。


 まあ、こうして、任那動乱史であるような欽明天皇紀に入って行くのだが、書紀の記事は、非常に難解なのだね。難解ながらも訳し終えて僕は正直ホッとしているのだけれども、欽明二十三年には任那は遂に滅んでしまうのだ。

 振り返ってみれば、任那は、恐らく最大の軍勢である磐井倭国の後押しを失ったことで急速に滅んでいったように思えるのだ。任那にとって見れば新羅も敵だが、百済も敵だったと言うことだね。書紀の記事を読む限りでは、欽明天皇の『任那を復興せよ』は、言葉だけで軍力を伴わなかったようだ。・・・と、いうのも任那諸国王の濃い親戚は筑紫倭国であって、大和王家ではないからなんだ。欽明期に任那・百済・高句麗の記事を投入するのは、古来から百済・新羅の史書にある倭国の韓地侵略記事に整合させるためだと僕は考えるのだ。そうでなければ、大和王朝が倭国とは別物であることが見え見えだからね。

 

 書紀は、大和国と三韓を、必死に関連づけようとする反面、何かと筑紫の君を登場させている。欽明十五年(554年)、百済聖明王が新羅に出陣して殺害された時、王子の余昌よしょうは、囲まれて退路を断たれるのだが、良く弓を使う筑紫の国造と言う者がいて、強弓で馬の鞍を射貫いて、王子は間道より逃れることができたという話が出てくる。又、欽明十七年(556年)正月には人質となっていた余昌の弟、王子(けい)が百済に帰るに際して大和の使者、阿倍臣・佐伯連・播磨の直、らとともに筑紫の軍船で百済に使わしているのだ。そうして言うのだね、【別に筑紫火の君(百済本記に云わく、筑紫君の子の火中の君の弟なりと)を遣わして勇士一千を率いて、守って弥弓みて津に送らせて、この津からの道の要塞を守らせた】と、いやに丁寧に筑紫の君を登場させているのだ。僕の考えで言えば磐井が死んだのが531年だから、その時から二十五年経っている。筑紫の君磐井の子が筑紫の君葛子(くずこ)でその子が筑紫の君火中であるらしいことが時系列的に判読できるように書かれている。そしてまた、韓地への軍隊の主力がどうやら、筑紫の軍隊であることも描かれているのだ。これは驚きだね!」

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