露天風呂そして満天の星 八
祐司は言った。「実際、この継体天皇の在位年の三年短縮は太安麻呂の日本書紀解明の最大の起爆装置ですね。太安麻呂は継体二十五年説の根拠として百済本記の記事を待ちだしてきて継体天皇の死亡の記事を書くのですね。気をつけねばならないのは、百済本記は、後世の我々が手にすることのできる三国史記中の百済本紀・・・1145年、朝鮮の統一国家である高麗によって作成されたものですね。・・・とは異なるもので、663年~720年に作成されたようです。この百済本紀の前に百済記・百済新撰などがあったことが日本書紀に載る逸文によって判明してます。ちなみに書紀中には百済記が五カ所、百済新撰が三カ所・百済本記が十八カ所、引用されています。しかし残念なことに、現存するのは1145年に作成された高麗の三国史記中の、百済本紀のみなんですね。」
「そうだ、そうだ。このことは一度しっかり言っておきたかった事だよ。・・・さて、書紀は今は現存しない百済本記によって継体天皇の死は三年早めて継体二十五年だとうわべは言っているのだが、裏ではこっそり三年伸ばすという奇妙なことをやっているのだ。このことは既に言ったけど、書紀最終編纂者は、継体天皇在位は二十八年間であることに確信を持っていたが、わざわざ二十五年にしたのは、継体二十五年にある【日本の天皇及び太子・皇子、ともに亡くなられた】という新羅本記の記事にスポットを当てたかったんだと思う。これによれば二十五年に何らかの天皇一家が亡くなったのは事実である可能性がある。この天皇とはだれか?あるいは継体と争っていたかもしれない武烈天皇(書紀は武烈天皇について最上級のひどい悪口を書いているからね!)の事だろうか。そうであるなら、内乱中の武烈天皇並びに継体王は韓地の支配に口を出すなどはできなかったと考えられるね。従って、僕は結論を下すわけだ。この二十五年こそは磐井の倭国が亡ぼされた年だとね。倭国から出た神武天皇の長男の子孫である太安麻呂は、言うなれば倭国直系でもある、歴史上に存在した倭国を史書から抹殺することはしたくなかった、それでこのような謎かけでもってそれを記事としたということだね。折も折、日本書紀作成の総監督、藤原不比等は死病に取り付かれ、書紀の完成を急いでいた。(書紀本文中には記事のあとに【云々】という文字が見られる箇所がある。これは、この箇所をもう少し詳しく書こうとして、そのままになってしまった残滓なんだと思う。書紀にはこうした校正が良くなされていない条が残されている。つまり、書紀は見切り発車してしまった史書ではないだろうか)太安麻呂はこうした機会をとらえて、意図するところの記事を挿入したのだ。書紀は漢文であるし、どうせ解りはしないとも思ったのだろうね。(宮中における書紀の講読会は、完成後すぐ、太安麻呂を博士として一度開かれたのみで以後百年、講読会は開かれなかったのだ)」