露天風呂そして満天の星 六
祐司は言った。「その事が事実だとすると、磐井の死後八年の間に、大和王家の支配は進んだということですかね」
「書紀には、磐井の乱後に筑紫と大和の争乱は書かれていないが、おそらく何らかの戦闘や懐柔が行われたのだろうね。そうして八年経って、ようやく大和王権を全国に広げる機会がやって来たというところだね。」
「磐井の乱(僕の考えでは531年)に先立つ継体六年(512年)に百済は任那の四県を新羅侵略からの防衛のために譲って欲しいと継体天皇に使者を送って、それが認められていますね。この時、百済が使者を送ってきているのは、本当は大和王権でなく、筑紫倭国ではないかと思われませんか?」
「その通りだね。継体六年という時期は継体天皇にとっては、武烈の支配の失敗によって、近畿圏は凄まじい内乱状態にあったように思われるから、継体にそのような権力も余裕もなかったと考えられるね。継体天皇は継体元年に即位したように書紀には書かれているが、おそらく、この時は王乱立といった状態で戦国時代的な状況だったのではないかと推測できるのだ。継体は即位して長らく大和に都を構える事ができなかった。継体元年には大阪の枚方に入った。五年に山背の筒城(京都府南部。大和の北)に移った。十二年に同じ地域の弟国に都を移動した。そうしてやっと二十年になって初めて大和の中心とも言える磐余(奈良県桜井市)に都を構えているのだ。
・・・こうした、状態を見れば、継体が即位したというのは後世のつじつまあわせで、継体は二十年まで近畿で優勢な勢力であったにすぎなかったと考えられるね。したがって、こうした転戦をくりかえす継体には韓地に目をやる余裕などはなかったはずで、任那四県の譲渡が磐井又はその父の筑紫の国(恐らく倭国)が関与している可能性がある。
祐司は言った。「もし、倭国と大和国が並立していることが真実だとしても、記事には好きなように書けますね」
「そうだね。このあたりの書紀の記事は創作も良いところだろうね。したがって、このあたりの時系列もグチャグチャだと考えられるが、継体二十年に大和に都を構えて五年後・・・僕の考えによるとだよ・・・に磐井との戦いが行われているのは、タイミング的に整合するのではないかな?近畿の掌握を終えた継体が、いよいよ全国制覇に乗り出したという有様が目に浮かぶようだよ!」