露天風呂そして満天の星 五
「筑紫風土記の内容が真実に思えるのは、、どうやら筑紫の決定的な敗北に終わっていないようだからなんだ。書紀の記事に
筑紫の君葛子父の罪に座して、罪とされる事を恐れて、糟屋屯倉を献上して、死罪を免じられることを乞うた。
と、あるのだね。糟屋は今の福岡県糟屋郡の事らしい。この記事からは反逆者の息子が、たった一つの郡を供出しただけで、死罪を許されて、以後も筑紫支配を続けたというような内容が読み取れる。誇張が常とされる書紀において、天下分け目の戦いがこの程度の領地の提出で、負けた側の罪が許されるというのは筑紫の国は負けなかった事を示しているのではないだろうか?」
祐司は言った。「先生の言いたいことは、解りました。風土記に書かれている記事と書紀の記事を考え合わせると、磐井の乱の実態は、大和国の倭国に対するクーデターで、織田信長の本能寺の変みたいだったのではないかと言うことですね」
「そうだね。大和の軍勢は、韓地遠征の友軍として、筑紫に入ってきたのではないかな。それが不意に倭国王である磐井を襲った。磐井と王族は打たれたが、クーデターの常としてその勝利は一部の勝利に過ぎず、その事を知った、倭国王子と貴族と国軍は兵をおこして、大和国軍と激しい戦いになったのだと思う。この戦乱によって大和国が得たものがたった一つの郡であったというのは非常に変だよ。実際は大和は何も得るものがなく、倭国との間に、しかたがなく和平が取り交わされたに過ぎないのではないだろうか。歴史の流れから見れば、大和国はやがて筑紫を飲み込むのだから、こうした和平もまた崩れて、多くの戦いがあったであろうが、それらの事は書かれていないという事ではないかな。次に注目すべき記事を見ることができる。
安閑天皇二年(535年)五月九日 筑紫の穂波(福岡県)の屯倉・鎌(福岡県)の屯倉、豊国の三崎(大分県)の屯倉・桑原(福岡県)の屯倉・肝等(福岡県か)の屯倉・大抜多禰(福岡県)の屯倉・我鹿(福岡県)の屯倉、火の国の春日部(熊本県)の屯倉、播磨(兵庫県)の国の・・・(中略)に屯倉を置いた。
とあるのだね。ここには筑紫を主として、中略の文には備後国(岡山県・広島県)や紀の国(和歌山県)のほかに丹波、滋賀、名古屋、群馬、静岡の各地が記されている。
深読みすれば、大和国は、ここに現れる諸地域を、この時以前に支配していなかったと言うことをが言えるかも知れない。・・・つまり、磐井の倭国はこれらの地域を支配していた事を示してはいないだろうか。・・・磐井の乱が527年だから、それから八年にして、旧倭国所領に、大和国が支配の拠点、屯倉を一挙に設置したと言うことだね。この八年という歳月は、大和国が倭国を打ち負かすには十分の歳月と言えるところにも、史実が露わになっていると言えるね」