露天風呂そして満天の星 四
「さて、だいぶ脱線したようだ。僕はね、ただ巨大陵が、必ずしも大和王権の産物とは言えないと言うことから説き起こして、大和王権が藤原京以前、つまり天武天皇以前はそれほど強大な王国ではなかったのではないかと言いたかったのだね。そうした推測からいえば、韓地で軍を動かしている倭もしくは倭国は大和王権ではあり得ない。日本書紀は邪馬台=倭=大和=日本=やまと、と何でも【やまと】とふりがなをふってしまうけど、これは意図的なものだ。つまり、少なくとも神武以前に存在していた倭国を、大和王権と同一化した表記を故意にしているわけなんだ。
この叙述のやり方の中には、旧唐書の書くところの「日本国はもと小国にして、倭の地をあわせて大きくなった」という、冷静な分析のかけらもないのだね。
さて磐井殺害後、韓地に渡った毛野臣の無惨な失敗のあと、任那は新羅・百済両国の侵略によって滅亡への坂道を下っていくことになる。このことは、しつこいくらい書いたね。書紀はここで【日本天皇】という表記をするけれど、当時、【天皇】という呼称はまだ存在せず【大王】と言ったような呼び方をしていたようだ。継体天皇紀(507年~)の大和王権は今の我々が考えるよりも遙かに脆弱な国力であったと僕には思える。未だ元号もなく、磐井追討にあたって、やっと政権を掌握した継体帝自らが『この戦いは国家存亡の危機である、独断で戦略を進めてもよいから勝利せよ。勝利したら、筑紫はお前に与えよう』とまで言わせているのは、書紀の創作ではなく、実際にはもっと過酷な状況であったからではなかろうか。そうでなければ書紀はこのような記事を書かないだろうね。
こうして、小国である、大和王朝は磐井討伐に乗り出すのだ。後代、大和王権によって、各地に作らせた【風土記】の一つである、【筑紫国風土記】には、磐井は不意打ちされて、磐井の周辺の人間だけが、あたかもクーデターのように殺害されたように書かれている。【磐井は一人逃れ隠れた】ともある。それは日本書紀が書くところの、両軍の正々堂々の戦いと趣がずいぶん違うのだね。もし、この戦いがクーデターであるならば、磐井は王であった可能性があるのではないだろうか。