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露天風呂そして満天の星 三

 祐司は言った。[つまり、なんですか、天皇陵と言われているものが、本当は大和王家のものではないという疑いがあると言うことですか?]

[そうだね、その全部が大和王家のものではないと言うのは言い過ぎで、恐らくその一部は大和王家のものであろうが、かなりの陵が大和王家以外のものであったかもしれないと言うことだ。そう言えるのは、さっきも言ったように、陵についての書紀の記録も曖昧の上に、学術調査も全く行われていないからなんだ。それがもしもだよ学術調査で明らかになったとすれば、日本書紀の虚偽が明らかになってしまうではないか。そうなれば、大和王家は、万世一系の栄光を失って後世の北条氏や足利氏や豊臣氏と同じような一時の支配者に墜ちてしまう。これは大和王家の官吏たる宮内庁=宮廷貴族の一番恐れる所だと思う」

「大陵=大和王家という図式が崩れることによって、大和王朝の強大さの呪縛が解けるわけですね」

「そういうことだね。それと触れておきたいのは宮内庁は一般に思われているような小さな組織ではないのだね。宮内庁の職員千五百人・皇宮警察(英語名はインペリアル・ガード=近衛兵)千人といった大所帯で、ちょっとした国の王宮の宮人と兵と言ったほどの構成で宮内庁は一種の国内国の姿をしているわけだ。こうした状況だから宮内庁には存続したいという組織的意識が生まれていると僕は思うのだ。公務員採用に受かった者が職員に入る事も行われるが過半はやはり徳川時代以前の家柄が重視され世襲のようになっている。つまりここには旧大和王家が生き残っているわけだね。その永続のための権威の根幹は大陵と日本書紀だと言って良いだろうね」


 沙也香は言った。「へえーそうなんですか。私はもっと小さい百人ぐらいの官庁だと思っていました」

「・・・僕は明日香に旅をした。明日香の古王宮跡を見てみると小規模のものだ。大和三山を取り囲むような壮大な藤原京(方5キロ㍍)は、こうした狭い都である飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやから遷都されたものなんだ。この都は天武五年(676年)に計画され持統四年(690年)に着工され、持統八年(694年)に遷都が実行されたのだね。しかしこの状態は甚だ未完成で704年一応の完成をみたということだ。しかし、それもつかの間710年に平城京に遷都してしまったのだ」

 祐司は言った。「このあまりに急な遷都は不自然ですよね」

「そうなんだ。物部氏(石上氏)を追い落とす藤原不比等氏の策略だったという説があるね。この時代は非常に重要な時代なんだ。書紀の記事は697年で終えている。そうして720年に書紀は完成を見ているのだ。だからこの時代の波の中に、日本書紀編纂者たる藤原不比等・舎人親王・太安麻呂は生きていたということだね!」


 

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