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毛野臣送還後の任那について 遂に任那滅亡 三十一

「 欽明十八年(557年)三月一日 百済の王子、余昌継いで立った。これを威徳王いとくおうという。

 欽明二十一年(560年)九月 新羅は弥至己知奈末みちこちなま(弥至己知は名前。奈末は新羅官位十七階の十一位)を遣わして貢ぎを奉った。丁重に饗応され頂き物は常よりも多かった。奈末は喜んで帰り言った。『貢ぎの使いは国家が重要と考えていることです。使いとして選抜されることは人々の喜びとするところですが、実際に使者となると大変軽く扱われます。王制のつまずきはおおむねこのような所にあります。願うことは、使者には品性の高い人を選んで頂きたいということです』


 欽明二十二年 新羅は久礼叱及伐干くれしきふばつかん(久礼叱は名前。及伐干は新羅官位十七位階の九位)を遣わして貢ぎ奉る。饗応は常より劣り、及伐干は憤怒のうちに帰国した。


 この年、新羅はまた奴氐大舎ぬてたさ(奴氐は名前。大舎は新羅官位十七位階の十二位)を遣わして、先に持ってきた貢ぎを奉った。難波の外交用の庁舎に諸外国人を着座させるとき、百済の下席に新羅を列ねた。大舎はこれに怒って客用の宿舎に入らず穴門あなと(山口県長門西南部)に戻ってきた。 この時穴門では異国の客のための宿泊施設、穴門館を修繕していた。大舎たさは問うて言った。『これはどの客のために造るのであるか』と。工匠の河内馬飼首押勝こうちのうまかいおびとおしかつは偽って言った。『西方の無礼な国を問責するための使者が泊まるところです』


 大舎は国に帰って、この言葉を伝えた。そのため新羅は城を安羅の波斯山はしむれに築き、日本に備えた。


 欽明二十三年(562年)新羅は任那を亡ぼした。


 ・・・ついについに、任那は亡ぼされてしまったわけだね。磐井の乱(527年)から35年、長い年月からすれば磐井の滅亡と任那の滅亡は非常に同時期なわけだね。任那は百済と新羅のせめぎ合いの中で、百済の力が衰えたときに、新羅についに吸収されてしまったのだね。ちなみの百済の滅亡は662年。不思議なことに百年後に百済は滅びるんだ。・・・」

 裕司は深く息を吐いた。

「いよいよ先生の探求の終わりがやって来ましたね」 

「後は、沙也香君を交えて放談打ち上げ会をやろう。美味しい酒を飲もう!旅をしよう!温泉に入ろう!」

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