毛野臣送還後の任那について 百済聖明王斬首 三十
「又、次々に射る矢は雨のようで、ますます激しくなる一方であったから囲んだ軍はしりぞいた。これによって余昌と諸将らは間道から逃げ帰る事ができた。
余昌は筑紫国造が囲んだ敵軍を退けたことを褒めて、尊んで名付けて鞍橋君と呼んだ。新羅の将らは百済の兵が疲れ尽きた事をまざまざと知って、亡ぼして兵の残りがないようにしようと思ったが一人の将がいて言った。『それは良くない。日本の天皇は任那の事でしばしば我が国を責められる。まして韓地における天皇の宮家ともいうべき百済を亡ぼす事を謀るならば、必ず後の憂いをまねくであろう』と。それ故、百済の全滅は止められた。
欽明十七年(556年) 百済の王子恵が帰国したいと言った。(恵は十六年二月来日していた)よって、兵と良馬を非常に多く賜った。また、その他に多くの賜り物があった。加えることに阿倍の臣・佐伯の連・播磨の直を遣わし、筑紫の国の水軍とともに守って百済に送らせた。また加えることに筑紫火君(百済本記は言う。筑紫の君の子である火中君の弟であると)を遣わして、勇士一千とともに、守らせて弥弓津に送らせた。
・・・ここのところは微妙な書き方だね。どうも、ここで主力として動いているのは、筑紫の水軍のように僕には思えるんだ。大和の臣を運ぶのが筑紫の水軍で、しかも筑紫の君の子を将軍として百済に出発させている。おそらく彼に従う兵も筑紫の兵であると推測できるね。書紀は、ここでいやに筑紫の軍兵にこだわっていないだろうか?こうした任那と百済の救援の戦闘の主体は、筑紫であったことを書紀編纂者=太安麻呂は示そうとしているのではないかな?この条の前に出てくる鞍橋の君と呼ばれた筑紫の国の造も、歴史の闇からわざわざスポットライトを浴びて登場させられているのだ。こういう事からいえば、書紀は筑紫の造をきわだって注目させているのだ。
もっと詳しく言えば、筑紫火の君は肥国(今の長崎・熊本・佐賀)の豪族で神武天皇の条に神武天皇の長男神八井耳命は火君らの祖という記述がある。この、神八井耳命は神武東征の条で多氏の祖という記述も見られる。このことから太安麻呂は筑紫の君と深い血筋があることが推察できる。太安麻呂が筑紫の君や磐井にあえてスポットライトを当てるのは、祖が国王である筑紫倭国(筑紫というけれど本当は、倭国は山陰・山陽・四国・小豆島・近畿あたりも統治する国だったんだけど)が現存した真実を日本書紀の中に留めておきたかったからだとは言えないだろうか。・・・さて、先を急ぐか。