毛野臣送還後の任那について 二十九
「百済聖明王の王子、余昌は新羅を討とうとした。老臣たちは諫めて言った。
『天はいまだ百済の味方ではございません。そのような事をすれば百済に禍が及ぶでありましょう。』
余昌は言った。『老臣たちはなんと愚かであろうか。私は大和に仕えているのだ。何の恐れることがあるだろうか』と。
遂に王子余昌は新羅の国に入って久陀牟羅の要塞を築いた。その父の聖明王は憂いて思った。余昌は長く行軍に苦しみ、長い間、寝食に事欠いている。父の慈愛がかければ息子の孝成りがたいという。従って王自ら戦地に行ってねぎらった。
新羅は聖明王が新羅領内に自らやって来ると聞いて、新羅のことごとくの兵を発して道を遮って破った。
この時に新羅王は佐知村の飼馬奴苦都に言った。
『苦都、お前は馬飼いという卑しい者である。百済聖明王は名のある王である。今、卑しい汝をして名のある王を殺させよう。この事が後世に伝わって忘れられないようにしたいと思うのだ』
こうして苦都は聖明王を手中に得て王に再拝して言った。
『王の首を斬らせて頂くことをお許し下さい』
聖明王は答えて言った。『王たる者の首は下卑の奴の手によって斬られるものではない』
苦都は言った。『わが国の決まりでは、約束を破れば、たとえ国王と言っても、下卑の奴の手にかかるのだ』と。(一本によれば聖明王は胡床(イス)に深く座り大刀を苦都に授けて首を斬らせたという)
聖明王は天を仰いで大きく嘆いて涙を流した。そして言った。
『私はいつも骨身にしみる苦痛をなめてきた。今は計りのすべてが尽きた』と。そして首を伸ばして斬られた。
苦都は穴を掘って斬った首を埋めた。(一本によれば新羅は聖明王の頭骨を留め埋めて、他の骨を礼をもって百済に送った。今、新羅の王は聖明王の首を北の政庁の主階段の下に埋めている。この庁を名づけて都堂と呼んでいる)
王子の余昌は包囲されて逃げようとしても逃げられなかった。将兵はあわてて為すべきを知らなかった。そのとき弓の達人、筑紫国造という者がいて率先して弓を弾いた。狙いを定め、新羅の騎馬の最も勇む武将を射落とした。放つ矢が強いこと鞍の前後を射貫いて甲冑に突き通るほどであった。