毛野臣送還後の任那について 二十八
「 三月一日 百済の使人文次らは帰国した。
欽明十五年(554年)五月三日 内臣、船師(水軍)を率いて百済に到る。
十二月 百済は下部枰率汶斯干奴(杆率は百済官位十六階の五位、汶斯干奴は姓名)を遣わして書で言った。『百済の聖明王及び安羅に駐在する大和の諸臣、任那の国々の旱岐(王)らは言いました。【考えてみれば新羅は無道で、天皇に従わず高句麗と心を同じにして、日本の韓地の宮家を亡ぼそうとした。百済の臣は相談して、内臣らを日本に遣わして(田沼註・内臣は日本の重臣のはずだね。これは、編纂時に間違えたものという説があるのだね)天皇にお願いして軍兵を乞いて新羅を討とう】と。
これによって内臣は(註・これは日本の臣だよ。前記内臣とは別人)六月に百済に到来しました。私達はこれを深く喜びました。十二月九日には彼らを新羅を討ちに遣わしました。百済王はこれに東部の領主、物部の莫奇武の連(百済人であるから、連は日本のカバネではなく、敬称。物部氏の血をうけたものか?)とその兵を合流させて、函山城(ソウル東方100キロ)を攻めさせました。
内臣の将、筑紫の物部の莫奇委沙奇は火矢を良く射りました。天皇の霊威によって十二月九日の夕べ、城を焼き落としました。それで単臣早舟によって、このことを奏上致します』
さらに付け加えて書で言った。『もし敵が新羅のみならば、内臣の率いてきた兵のみで足りますが、今、新羅と高句麗は結託して軍を興しておりますので勝利する事は難しいでしょう。伏して願うことは、すみやかに筑紫の島の周辺の国の諸軍を遣わして頂くことです。そして百済と任那を助けるならば新羅に打ち勝つことはできるでしょう』
また、さらに付け加えて書で言った。『百済王は別に兵万人を送って任那を助ける事を合わせて奏上いたします。今、事は急を要します。そのことを至急の単船をもってお伝えします。簡易な単船ながら錦二匹・上質の毛のフェルト・斧三百及び虜にした城の民、男二人・女五人を差し上げます。少ないもので恐縮いたします』