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毛野臣送還後の任那について 二十六

 百済の臣は続けて言った。「高句麗が任那の安羅を名指しで狙っていることに私達は恐れを抱いております。それで疾走する軽船を日本に遣わして、お伝えします。天皇は慈愛の心をもって、前軍・後軍を相次いで遣わし来たりてお救いください。秋のころには安羅の宮家の武装の増強をしてください。もし遅くなるならば、ほぞを嚙む事になりましょう。(自分の臍を嚙もうと思ってもできないでいらいらする。そのような気持)遣わされた軍兵が韓地に到ったならば衣糧の費用は百済王が調達いたします。任那に入っても同じように致します。

 的臣いくはのおみは天皇の命を受けて、臣の国を守り、日夜怠らず勤めました。このことにより、諸国は、みなそれを讃えました。的臣は引き続いて韓の諸国を鎮め続けることであろうと思いましたが、不幸にも亡くなられました。これを私達は深く悼みます。今、だれが任那を代わって治めることができるでしょうか。伏してお願いする事は慈愛をもって速やかにその代わりを遣わして任那を鎮めることです。また、私達は弓馬がきわめて乏しく古来より天皇におすがりして強敵を防いでまいりました。弓馬を賜ることもお願いしたい」


 欽明十四年(553年)十月二十日。百済聖明王の王子余昌(よしょう)はことごとくの百済の兵を発動して高句麗に行って百合野ゆりのの要塞を築いて軍兵の中で眠りまた食した。夕刻にはるかに見渡すと野は良く肥え平原はなだらかに広がり人影もなく犬の鳴き声もしなかった。すると、にわかに鼓笛の音が聞こえて余昌は、これを聞いて驚いた。このことで余昌は鼓を打ちならし答えさせた。夜を通して守りを固め、ほの暗いうちに起きて平野を見れば、青山を樹木が覆おうように高句麗の軍旗が林立している。

 あけぼのに雄壮なよろいを着けた一騎と銅鑼を持った二騎、豹の髪飾り着けた者二騎、合わせて五騎が連れだって来て言った。『兵どもが言うには我らが野に人がいると言うことだ。これをうち捨てておいて迎えの礼をしないという事はできない。今、願うことは、挨拶を交わすあなたの姓名と年を早く教えて頂くことだ』と。

 余昌よしょうは答えて言った。『姓はあなたがたと同じ扶余ふよ、位は杆率かんそち(百済官位十六階の五位)、年は二十九才だ』と。余昌は使者に同じ事を聞いた。使者は作法通りに答えた。

 二者はそれぞれ軍旗を立てて、あい闘った。この争闘で百済はほこによって高句麗の勇士を馬から刺し落として首を切った。そして切り落とした首を鉾の先に刺して挙げたまま兵の群れに戻り示した。これを見て高句麗の軍将の憤怒の顔はますます甚だしくなった。百済の兵の喜び叫ぶ声は、天地が裂けるようであった。また百済軍の副将は鼓を打ち鳴らしながら良く戦い高句麗の王を東聖山とうじょうせん(ソウル東方の大聖山か)に追い上げた。


 ・・・百済は百合野に要塞を築いたと、この文章にはあるけれど、この時点、百済と高句麗の間の漢城のあたりは新羅が、百済の領を奪って国土を構えていたはずだから、この叙述には矛盾があるね。あるいは百済の言う高句麗軍には新羅の軍が混ざっていたかもしれないし、あるいは、いまだ新羅がまだ領地を持っていなかったのかも知れないね・・・」


 沙也香は言った。「なんだか、日本書紀が韓国の史書であるかのように錯覚してしまいそう。たとえば英国の歴史書なのにフランスの歴史を書いているような変なところがありますね」

 「そうだね。それはね、書紀が自国史を膨らますために、当時現存した百済史・新羅史から多量に流用したということではないのかな」


 

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