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毛野臣送還後の任那について 二十五

「欽明十一年(550年)四月一日 


 百済に遣わした日本の使いが今、帰ろうとした。ーー百済本紀は書く。四月一日に日本の阿比多あひた還るという。ーー百済聖明王は使いに言う。『任那の事は天皇のおっしゃる通り復興に努力することを固く守ります。高句麗に通じているという、任那の延那斯えなし麻都まつの処遇はお聞きにならなくても天皇のお考え通りに致します』と。そして高句麗との戦いで獲た奴隷六人を献上した。それとともに、使者にも一人献上した。


 欽明天皇十二年(551年) 


 この年、百済聖明王は自ら百済兵と新羅・任那兵を率いて高句麗を打ち、かって高句麗に奪われた旧都漢城を得た。さらに軍を北に進め平壌へいじょうを討った。(平壌は今のソウル。漢江下流北岸にあり、南岸の漢城と相対している)これによって百済はかっての百済六地方を完全に取り戻した。


 欽明十三年(552年)


 百済は漢城と平壌を捨てた。これによって新羅は漢城に入った。


 欽明十四年(553年)


 正月十二日 百済は日本に使いを遣わして軍兵を乞うた。

 

 六月 臣を百済に遣わした。その時に良馬二匹・大型船二隻とその軍兵・弓五十(はり)・矢五十具(2500本)を贈られた。そして天皇の書を以下のよう伝えた。『請求によって送った軍兵は王の自由にせよ』 また、別に伝えた。『医博士・易博士・歴博士らは交代制で行き来せよ。今日本に来ている人はすでに長年滞在している。彼らは百済に戻る使いに付けて交代さすべきである。また易占いの書・歴の書・種々の薬を献上せよ』


 八月七日 百済は日本に使いを遣わした。もたらした書に言う。『去年、私達は相談し百済の臣の次酒ししゅ・任那の上級官人を日本に遣わして(欽明十四年正月の条)、こちらの情勢をお伝えし、詔を待つこと春草の甘雨を仰ぐようでありました。そうこうするうちに今年早くも新羅と高句麗が議して言いました。【百済と任那はひんぱんに日本に詣でている。推測するに軍兵を乞うて我が国を討とうとするのであろう。これが本当であるなら新羅と高句麗が滅ぶ日は遠くあるまい。できれば日本の軍兵が動く前に任那の筆頭で日本府のある安羅あらを討ち取って日本の動きを封じよう】と』

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