毛野臣送還後の任那について 二十四
「 欽明九年六月二日 日本は使いを百済に遣わして言った。『徳率宣文が帰国してからどのようにしているか。朕(天皇の自称)は聞いた。百済が高句麗によって破られたと。以前のように任那とともに力を合わせて、防御せよ』と。
欽明九年(548年)十月 兵を三百七十人、百済に遣わして城を得爾辛に援助して築かす。
欽明十年(549年)六月七日 百済の久貴・次文(何れも来日期不明・人物不詳)が帰国しよう言う。したがって詔していわれた。『延那斯・麻津が秘かに高句麗に、遣いを出したと言うことの虚実について問いただす使者を遣わす事を約束する。百済が乞うた兵は、その後の願いによって停止することにした。』
欽明十一年(550年)二月十日 天皇は使を百済に遣わして・・・百済本記には三月十二日、日本の使人阿比多、三つの船を率いて百済に到る。とある・・・詔していう。『私は久貴族・次文にすでに伝えさせた件について詳しく手に取るように説明しよう。ここにおいて、朕は任那と日本府についての気持を定めようと思う。(と、いうのは彼らが高句麗に通じているというのはどうも真実なようであるからだ)朕が聞くところによると、奈率の馬武は百済王一の臣という。百済が、真に日本に仕えようと思うならば、馬武を日本に使いとして出せ』また次いで詔を伝えた。『北敵高句麗は凶暴である。ゆえに矢を三十具(千五百本)与える。防衛につとめよ』
・・・この条の、書紀はきわめて難解で、僕としてはこれが精一杯の訳なんだ。あるいは、これは正しくは無いかも知れない。しかし、ここで書紀が書きたいところの事はうっすら伝わってくるように思える。どうも任那と日本府を牛耳っている倭人は、百済を一種の侵略者と見ているようだ。それでその侵略者に対抗するために高句麗と新羅を連合させて闘わせようとしている。これは任那の側から見ると任那の独立を保つために取らざるをえない策だったという事だね。筑紫倭国は、かっては任那にとって心強い軍力であったが、それに変わった大和国は言うことは言うが、軍力という面で実に心細い存在だったと思う。 つまり百済=大和国、任那=筑紫倭国 という構図が見えて来ないかな。任那は筑紫倭国という保護者を失って、百済に侵略されつつあったので、新羅や高句麗にすりより独立を保とうとしたというところかな?
天皇が調べてみると任那と日本府が高句麗と通じて、百済への出兵のきっかけとなった事が解ったのだね。しかし天皇はここで、立場を任那の方でなく百済の側に移すことを明確にするのだ。それで、天皇は百済王一の重臣を、日本に人質として差し出すことを要求し、高句麗を共同の敵として定め、その象徴として千五百本の矢を百済に提供するという事になったのだと思う。 」