御成通りの立ち飲みどころ
「次は第四の、古事記と日本書紀の性描写について検討したい所なんだけど、これは次の機会に検討しようか、沙也香さんを目の前においてあからさまで、いくらなんでも失礼だからね、後の日、おばさんになった沙也香さんから訴えられないとも限らないからね・・・」と田沼は沙也香をみて、いたずらっぽく笑った。
「だから、今日のところはこれで、おしまいとしよう。次回は祐司君と僕だけの密会とするよ、沙也香さん」
沙也香は口をとがらせて、不満そうな顔をしているが、内心は、祐司の前でそのようなあからさまな話にさらされたくはなかった。こうしたところが、田沼の優しいところで、詩人らしいデリケートな思いやりは沙也香の尊敬する所だった。それで、その不満顔もすぐ笑顔に戻った。
「そうですね。ヒヒじじいの餌食になりたくないですもの。どうせ録音は残るのですから、後で聞かせていただきます。でも、お上品にお願いします」
「アハ、上品なわけがないだろう。詩壇では、こうみえても女好きの評判を頂いているんだよ」
「そんなこと、知っています。会社の編集部長が田沼先生の毒牙にかかるなよと、いつも云われてますから」
「あ、ひどい言い方だな。もう僕は君の会社の仕事は降りる。部長に伝えて欲しいね。・・・アハハ」
先ほどまで、羊雲が赤く染まって、暗くなってきた海の上に広がっているのが見えたが、今はその赤い色もあせて、グレーの雲となっていた。
祐司と沙也香は灰色の羊雲の広がる海岸を歩いた。
「先生商売はね、のんきそうですが、結構、人間関係に気を遣わなければならないんですよ。教授の娘さんを妻に迎えろと、まわりはとかくうるさいのですが、僕は女性に興味のないふりをして、切り抜けているのです。大学の研究室というものは、とかく能力でなく、閨閥でつながっているような所がありましてね、これから自分などはどうなることやら」
「ちょっと見たところ、良い仕事にみえますけど、いろいろあるんですね」
「そう、だから、思うんです、田沼先生みたいな文筆業になりたいなと・・・ところで、僕、行きつけのお店があるんですがいってみますか。全然豪華な店ではないんですよ。立ち飲みですから。しかし良いお酒があります。沙也香さんだったら気に入って貰えそうです」
「鎌倉で立ち飲みですか?」
「鎌倉駅の西口の御成通りに高崎屋という老舗の酒屋さんがあるんですけど、裏で立ち飲みをやっているんですよ。そこに集まる人がなかなか面白くて、人生の風雪を耐えてきたという人が多いんです。行ってみません?」
「一度覗いてみようかしら、立ち飲みは行った事がないんですよ」
「助教授の前は、単に研究員だったから、そこの立ち飲みには随分お世話になったんだ。ものすごい薄給だったからね。お新香が奥さんの自家製で美味しくてね。、
これに鎌倉お屋敷御用達の純米酒が一合550円だから、随分楽しませてもらったものさ」
御成通りは、鎌倉駅と大仏を繋げる、駅前の道筋にある。従来は、観光から取り残された、さびれた地元商店街であったが、ここ十年来、観光地を歩こうという人々が増えて、そうした人々が、この商店街を活性化させつつあるのだろう。年ごとに町並みは美しくなってきている。。高崎屋は、この商店街の中核として、銘酒を扱い、重きを為しているのだ。