毛野臣送還後の任那について 二十一
「さて、また先をつづけるよ。
欽明天皇五年(544年)十一月 百済は使いを遣わして日本府の臣・任那の執事に言った。
「日本に遣わした使いが日本より百済に帰ってきた。日本府の臣、及び任那国の執事は百済に来て天皇の詔を聞き、共に任那について議そう」と。
日本府の吉備の臣・安羅の下旱岐大不孫・久取柔利、加羅の上首位古殿奚・率麻君・斯二岐君・散半奚君の子・多羅の二首位訖乾智・子他の旱岐・久差の旱岐らが、百済に行った。
百済の聖明王は詔の略(詔の本文でなく、抜粋したもの?)を見せて言った。「私が奈率弥麻佐らを日本に遣わせて時に得た詔は『早く任那を建てよ』というものであった。また、その後、日本の使者、津守の連は『任那の復興はできたか』という天皇の言葉を伝えた。それで、我が国は津守の連を百済に滞在させたまま、至急日本に使者を遣わした。このたび詔をもって使者が帰ってきた。これによって皆を呼んだのだ。さて、どのようにして任那を建てるべきか」と。
吉備の臣・任那の旱岐らは言った。「任那を建てることは百済の王の決意しだいです。我々は王に従って命を承ります」と。
聖明王は言う。「任那の国と我が国は古来、子とも弟ともいうほど親しくしてきた。それであるのに日本府の印岐弥(不詳)は、かって新羅を討って、今度は我が国を討とうとする。近頃は好んで新羅の甘語に乗っている。日本が印岐弥を任那に遣わしたのは、もとより任那を滅亡させるためではあるまい。昔から今に至るまで、新羅には倫理というものがない。新羅は偽り甘言を言って、任那の一国である卓淳を亡ぼした。百済は新羅と友好を結ぼうとするがいつでも裏切られ後悔する結果となる。それゆえ百済は任那を呼んで天皇の詔を承って、任那の国を興して、願わくば、もとのように旧日のごとく、とこしえに、兄弟でいたい。秘かに聞いた所では、新羅と安羅の二つの国の間に洛東江がありそこは要害に適していると。この右岸に拠点を置いて、六の城を造り、治めようとおもう。そして謹んで天皇に三千の兵を乞いて、城ごとに倭兵五百人とわが兵を配置して新羅人の耕作を妨げれば、対岸の洛東江左岸の新羅の久礼山五つの城は思い通りにゆけば、投降するのではなかろうか。これによって、洛東左岸にあった卓淳は再興することができるだろう」




