毛野臣送還後の任那について 二十
「欽明天皇五年十月 百済の使い人、奈率得文・奈率奇麻らは帰国した。百済本紀に云わく。十月に奈率得文・奈率奇麻、日本より帰りて云うに、天皇に奏すところの河内直・移那斯・麻都らの送還の事は返事がなかった。」
祐司は言った。「そういうことなんですね!結局は、新羅にすり寄っている日本府の臣に対して大和朝廷は何の対応もしなかったということですね。」
「うーむ。僕は思うのだがね。これが事実であるとすると、ずいぶんな話だな。これが、書紀の変なところだ。いわば天皇の無策を克明に描いているのだからね。」
沙也香も言った。「いよいよ、任那日本府長官達の更迭かとおもったら、何の処置なしですからね。この文は天皇を完全に笑いものにしてますよね」
「そうだ、長々と書いてきたのは一体何のため?と、云いたくなる。・・・ここに現れているのは、任那に対する大和王朝の無策そのものではないだろうか。ここまで来ると僕は、いうならば執筆者だろう太安麻呂の事を考えてしまうな。つまり、これを書いた人は、もう少し大和王家の対処を美しく描けないものかと考えてしまうのだ。それを美しく書いていないから、ここには何らかの執筆者の意図を感じるんだがどうだろう。」
「女の感なんですけど、ホホ、もし私に女の感があるとすればですけど・・・大和朝廷は、本音は百済の国力の増大を望まないで、新羅を支援していたという考えはどうでしょう。あるいはまた、大和朝廷に日本府の重臣達を更迭する力もなかったということも考えられないかしら」
「この頃。百済は新羅よりも強かったようだ。百済と新羅の二国は国力増大ために中に置いた任那を侵略しようとしていたのだとも言える。百済への任那四県の割譲は、割譲と言うより強制的併合だった可能性がある。ひょっとすると大和朝廷はそれを追認しただけなのかもしれない。もともと、新興日本にとっては任那は遠い親戚みたいなもので、磐井の倭国ほどの濃厚な姻戚関係はなかったからね。しかし、書紀は日本の出自と倭国をを隠蔽するためにも任那との関係を強調せざるを得なかったという考えはどうだろう。・・・以前、僕が飛鳥に行って、レンゲ畑の中の飛鳥の宮殿跡地を眺めた時、僕にはこの小さな箱庭のような王都の主人であったものが、三韓に活躍する倭国と同じであるとは到底思えなかった事がある。多くの史家はこのギャップをどう説明するのだろうね?」
祐司が言った。「磐井の乱(512年)以前の487年、紀生磐宿禰は任那の王として立ち、自分の事を神聖と呼ばせて百済と闘ったという記事がありますよね・・・」
「そうだ、任那諸国はかっては百済の敵だったことを忘れてはならないね。任那は統合されずに、なし崩し的に百済に吸収されてきたと考えていい。」